【様似町】様似郷土館(No.058)

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 色々と更新のペースが遅くなっている為、施設の情報とか施設の概要のみご案内している場合があります。詳しくはお知らせをご覧下さい。

展示室3

 比較的に小さい品々がぎゅっと展示されていました。
 壁に展示されているのは植物標本との事で、様似町に自生する植物を採取して標本にされたそうです。この標本は隣の展示室4にも展示されていました。かなりの種類が標本にされていましたけど、今は存在しない種とかもあるのでしょうかね。そうなると貴重な標本ですよね。

大正・昭和の暮らし

 色々と興味深い品々が展示されていましたが中でも中段左側から2番目のモノは、フランスの映画会社であるパテ(パティ)が販売したパテ(パティ)ベビーと呼ばれる9.5mmフィルムの撮影機です。
 何でも北海道では3つしか現存していないらしく、その内の1つなんですって。登別市登別映像機材博物館に行けばその内の1つがあるかも知れませんね。これは行って確認せねば・・・。

 下段右側のは行軍ラッパではなく熊避けラッパとの事でした。吹きながら山道を歩くのは大変でしょうけど、音量からして熊避け鈴よりも効果的でしょうね。

 当時の雑誌や、様似町に関する書籍類が展示されていました。この他にも振付け写真付きの様似観光小唄(旧・様似音頭)とか、ちょっと気になる展示がありました。何処で聞けるのか・・・。

 この雑誌は読売新聞社から昭和28年(1953年)に発売された「週間読売」の特集記事なんですけど、色々とパンチがキツイ。
 余談ですけど「疲労がポンと取れる」からヒロポンと呼ばれたとの逸話がありますが(本当は違いますけど)、元々は副作用とか幻覚症状とかある事が知られずに疲労回復薬とかの1つとして流通していたとの事で、終戦後には軍からの流出によってかなりの量のヒロポンが庶民の手に渡ったそうです。

 ダメ。ゼッタイ。

 それにしても、このページを見開きにして展示する学芸員さんのセンスよ・・・。仲良くなれそう。

戦時中の暮らし

 戦時中の品々です。
 終戦の丁度1ヶ月前である昭和20年(1945年)7月14・15日は北海道各地に空襲があり、その際に様似町も空襲を受けているらしく薬莢や弾痕が展示されていました。

 Q.どうして戦時中にパンを食べたのか考えてみよう。
 A.米が無ければパンを食べればイイじゃない。

 余談ですが、昔のパン焼き器ってパンの材料を箱に流し込み通電させて、その熱で焼き上がらせたそうです。
 パンの材料は最初こそ水分を含んでいるので通電しますけど、水分が無くなると徐々に通電しなくなり最後にはパンも焼き上がって通電も止まっていたそうです。頭イイね。但し、現在の様なふっくらもちもちのパンでは無かったそうなので喉が詰まりますよね。

 こちらは主に紙資料です。「生きて虜囚の辱めを受けず、死して罪禍の汚名を残すことなかれ。」で有名な戦時訓も展示されていました。
 こう言った戦時資料を目にするにつけ、何とも重い気持ちになりますね。沖縄県にあるひめゆり平和祈念資料館にも行った事がありますが写真なんか撮る精神的な余裕も無く、慰霊碑であるひめゆりの塔の前でピースサインしながら笑顔で記念撮影していた頭の悪い人間がある意味で羨ましかったり。
 以前にも書いた様な気がしますけど、戦争は良い面も悪い面もありますが、悪い面の方が多くを占めるので避けられるのであれば戦争は避けたいものです。

教育の歴史

 様似町内の各学校で使用されていた、教科書や用具類が展示されていました。
 下段の左側にある鉄琴は小学校で使用されていた放送用のチャイムなんですって。キーンコーンカーンコーンのアレです。音は何回も耳にした事はありますが、目にするのは初めてかも。
 余談なんですが、正式名称(?)は「ウェストミンスター・チャイム(ウェストミンスターの鐘)」と呼ばれており、イギリスのビッグベン時計台の鐘の音が由来です。今日も余談が光るぜ・・・。
 ※参考動画

 高等小学校第1学年は現在の小学5年生に当たるらしんですけど、当時はこんなに難しかったんですね・・・。
 ちょっと気になったので昭和24年以降の小学5年生の教科書を閲覧したんですけど、内容はさておき何と漢字の少ない事か。これがゆとりなのか・・・。いや中の人も昭和24年以降に生まれているんですけど、特にここ数年はニュース記事を読んでいても漢字が少ないですよね。漢字には一文字一文字に意味があるんですから、なるべく漢字で表記して欲しいなぁと思います。読めなければ調べれば良いだけの事なんですしね。

 因みに、この教科書に類するものは広島大学図書館・教科書コレンクション画像データベース(http://dc.lib.hiroshima-u.ac.jp/text/)で閲覧が可能です。お勧めは現在の中学1年生に当たる「高等小学校理科書(第三学年児童用)」です。この年齢で読んでも理解するのが大変れす(^p^)

展示室4

 「室」と言いますか展示通路です。とは言え、結構な数の収蔵品を1つでも多く展示したいのは何処の施設も同じであり、空いたスペースを有効活用されるのは観覧する側としては嬉しいです。施設側の「見て欲しい!」と言うのが伝わると言いますか。

 植毛されているのはアザラシの毛との事で、毛の方向とは逆だと滑り難くなるのでクロスカントリー用のスキーの裏面とかと同じ役目を果たしているそうです。毛・・・色々な意味で大切だね!

 当時、陸路は海岸沿いしか通っておらず、天候が荒れると波に浚われる風雲たけし城みたいなアトラクション満載の道だったそうで、でもそれだと色々と困るとの事で寛政11年(1799年)に開通した迂回ルート用の「様似山道」のジオラマです(山間の白い線がそれ)。これ結構きついルートだと思うんですけど、不測の事態が起きた時に通れないよりはマシなんでしょうね。
 因みに、海岸線側の道が整備されると様似山道の維持管理が行われなくなり山道が消えかけたそうですが、有志によって山道跡が整備され現在ではアポイ岳ジオパーク・フットパス様似山道コース(https://apoi-geopark.jp/course/course_06.html)として楽しまれているそうです。

 前述の様似山道は悪路で難所が多い為、宿泊施設兼案内所みたいな役割を果たす施設や人員が必要だったとの事で、地元で開拓していた原田夫妻が明治6年(1873年)から明治18年(1885年)の12年間もその任に当たったそうで、これを「原田宿(じゅく)」と呼ぶそうです。「やど」ではないんですね。
 現在では遺構と出土品しかありませんが、それらの調査結果を基にしてこのジオラマを再現されたそうです。
 ※参考動画
 ※無関係なんですけど個人的に好きなので参考までに。こぶしが凄い。

 これはギャートルズの石のお金ではなく石臼です。先にも触れましたが様似では江戸時代の頃から幕府によって金の採掘が行われていたそうで、この石臼ですり潰して石に含まれている貴金属を取り出していたそうです。そう考えると石のお金と同じかも知れませんね。
 因みに、その金鉱は「東金山(かなやま)金鉱山」と呼ばれたそうで、それなりに景気が良かったそうです。現在では採算が取れない為に廃鉱となっているらしいんですけど、採算を気にしなければまだ金の採掘が可能でしょうから、坑道は塞がれていますけど趣味で金の採掘が出来ます。やったね。
 余談ですが、様似町にお住まいになられている方々の男女比って、現在では女性の方が多いみたいですよ。独身男は急げ!

 出口付近にクマ。名前は「熊吾郎」で、性別は不明なんですって。いや、本当にそうやって書いてあるんですよ。女子だったら熊子に改名かしら・・・。

「様似町・様似郷土館」のまとめ

  • 通常の説明パネルの他にワンポイント説明パネルみたいなのもあって解り易い。
  • 職員さん(学芸員さんかも)が明るく爽やか。
  • 番号の謎が残った。

 手を触れずに電話を掛ける・・・とんちか・・・そうだ、橋の真ん中を渡ればイイんです!

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