【七飯町】歴史館(No.059)

※このページは約28分で読めるかも知れません。

 色々と更新のペースが遅くなっている為、施設の情報とか施設の概要のみご案内している場合があります。詳しくはお知らせをご覧下さい。

常設展示室2

 ここからは、旧石器時代から現代までが展示されていました。

歴史 / 先住の人々

 旧石器時代、縄文時代、続縄文時代、擦文時代と順に並んでいますが、七飯町では旧石器時代の遺物はまだ発見されていないらしいので今後に期待です。
 因みに、縄文時代の遺物は七飯町でも各地で発見されているそうで、ここでは展示物と共に各時代の概要が解り易く説明されていました。

 続縄文時代の頃の土坑墓(どこうぼ=土を掘って埋葬するタイプのお墓)です。覗き込まなくても内部が見える様に工夫されていて素敵。

歴史 / 祭りのあと(聖山遺跡)

 建設工事の為の事前調査時に縄文時代晩期頃の「聖山(せいざん)遺跡」と呼ばれる、石器・土器・土偶・石刀・装身具等々の遺物を廃棄した場所が15ヶ所も発見されたそうで、この発掘地からは住居跡が見つかっていないそうです。当時の産廃の埋立地なんですかね。

 大量に出土した一部が展示されており、縄文時代晩期なので形状も様々ですが、こちらの土器は文様が独特だった為に「聖山式土器」と名付けられたそうです。何でも文様を引き立たせる様な手法なんですって。
 あと、この右隣にはミニチュア土器が展示されていましたが、子供用の玩具とも祭事用の土器とも言われておりその用途は判っていないそうです。でも、個人的には製品サンプルだと思うんですよね・・・。大量に生産する為には流れ作業じゃないと難しいでしょうから、サンプルを各人員に渡して順に仕上げていたのではないかと思うんです。ベース作り職人→文様付け職人→仕上げ職人→焼き職人とか、そう言う感じだと思うんですよ。そうなるとQCサークルもあったでしょうから、トライ&エラーを繰り返して進化したのではないかと思います。

 そして出来上がったのがこちらの製品です。いや、QCサークルとかは流石に無いとは思いますが、それでも食後とかにそう言った会話があったとは思います。「腕上げたよねー」「いやー自分なんかまだまだっスよ」とか。
 それにしても、中央左側の土器なんて現代でも普通に通用するデザインですよね。パスタ皿とかに丁度良いです。

 この聖山遺跡では産廃の廃棄場所としてだけではなく、どうやら祭事の場所でもあったそうです。その証拠として、実用的ではない装身具や土偶等々が出土されているそうで、それらを廃棄する際には火を使った儀式が行われていたかも知れないとの事でした。美顔器みたいなのもありますしね。

歴史 / アイヌのくらし

 七飯町ではアイヌ語由来の地名とか和人による記録とかは残っているそうですが、アイヌ文化についての記録が少ないそうで余り詳しい事が判っていないそうです。口伝の文化なので已む無し。

歴史 / 新天地を求めて

 松前藩が誕生した慶長9年(1604年)のかなり以前より本州から和人が蝦夷地に引越して来ており、記録によると天文元年(1532年)に神社が七飯町に創建されたそうで、この頃には既に一定の集落があったそうです。
 当時は「七飯」ではなく「七重」の漢字が使われていたそうで、明治12年(1879年)に七重村と飯田村が合併して「七飯村」になったとの事です。「重」よりも「飯」の方がお腹一杯な感じがして良いですよね。

 これは七重だった頃の近くの大川村に伝わったとされる、僧侶の円空さんが作ったと言う観音像のレプリカです。円空さんは一説によると12万体に上る仏像を彫ったとされており、現在は国内で約5,300体が確認されているそうです。流石に1人で12万体は無理でしょ・・・。まぁ、七飯町には貴重な5,300体の内の1体が伝わっていると言う事です。

 ここら辺から18世紀に入り江戸幕府による管理が始まり、どんどん人が増えたそうです。
 又、この頃には同時に日米和親条約によって箱館(現在の函館)が開港されたそうで、東北各地の諸藩から人を集めて開拓やら警備やらをさせたそうです。詳しくは厚沢部町郷土資料館に展示されていましたので是非どうぞ。
 開港した為に外人さんが立ち寄る様になって、牛肉とか牛乳とかを欲しがるのでその為の牧場も官営で用意されたそうです。個人的には郷に入っては郷に従えと言う事で、黙って魚でも食べさせておけば良いと思うんですよね。まぁ、こう言う事が無いと牧場が誕生しなかったので結果としては良いのでしょうけど。
 その後、農園も用意されて薬草が育てられたそうで、徐々に規模が大きくなって育てられた苗木が箱館周辺に植樹されたそうです。今も残されているんですかね。

 ここから明治時代になります。中央は戊辰戦争の最終局面である箱館戦争で使用された銃、銃剣、幟(のぼり)等々です。幟に「故」と書かれていますが、この幟は箱館戦争で亡くなられた方々の法要の際に使用されたとの事でした。

 明治2年(1869年)にドイツのガルトネル氏と言う商人が西洋的な農場を行いたいとして300万坪もの土地を99年間も借りる契約を結んだそうで、でも地元の方々とのトラブルがあったり植民地化される事を恐れた政府が賠償金を支払う事でお引取り頂いたそうです。その後、300万坪の土地と施設はそのまま開拓使の方々が引き継いで使用したんですって。苦労して開墾したのに取り上げられて・・・。とは言え、流石に99年間は無いわ。長くても10年ですわ。
 因みに、右側のは当時のパックマンではなく、ガルトネル氏が植林したブナの木の年輪標本との事でした。

 ここら辺から蝦夷地→北海道になった頃で、明治2年(1869年)8月との事でした。
 本格的な開拓の為には道路が必要となり、その為に札幌市あしりべつ郷土館でも登場した「札幌本道(札幌⇔函館)」の工事が始まったそうです。
 又、先に登場したガルトネル氏から引き継いだ土地をベースとして、外人顧問団が提言した西洋式で総合的な農法を導入したそうで、東京、札幌、根室(ねむろ)、そしてここ七重に官設の農業技術指導センターが開設されたそうです。これら4ヶ所はそれぞれ役割分担されていたそうですが、七重のみ農業、牧畜、林業、養蚕、それらを製造加工する総合的で多角的な内容だったそうです。
 因みに、西洋式の農法とは大型農機具の導入、農業試験場の開設、西洋作物・果樹の植え付け、輸入された家畜の飼育、それらを製品化する為の加工技術の開発、加えて農業専門の学校の開設なんですって。

 ここ七重の官設の農園を「七重官園」と呼ぶそうで、ここでは七重官園で研究開発された農作物栽培、家畜の品種改良、製造加工、人工孵化・養殖等々に関する資料の一部が展示されていました。

 こんな感じで、文章だけではなく図解も交えて書かれていました。
 他のページでは「蝲蛄(らっこ)」と書かれており、これは「ザリガニ」を指すそうです。賢くなりましたけど、この情報は恐らく今後も使わないと思います。

 七重官園は明治2年(1870年)に開設されて、明治27年(1894)までの24年間でその役目を終えたそうです。とは言え、上記の様に培われた知識と技術はその後の道南方面の農産業の発展に繋がったとの事でした。
 24年と短い期間でしたが、明治天皇はその間に2回も巡幸の途中に七重までご来村し農場をご視察されたそうですので、如何に北海道の開拓や七重官園を重要視していたのかを示しているとの事でした。
 因みに、明治元年と明治2年で和暦と西暦にギャップが生じますが、これは旧暦と新暦の切り替え期間が重なった為で中の人の間違いではありません。

 中央の器具は、蓄力で動かすサトウキビを搾る為の心臓部でした。この歯車の歯の部分は全て着脱式となっており、欠けたり磨耗したりしても1本ずつ交換出来る仕様になっていてメンテナンスが簡便で良いですね。

 明治10年(1877年)頃の七重官園の中心地を再現したジオラマでした。

 押すと光る・・・。嬉しい。

 前述のガルトネル氏がリンゴの栽培を行っていたそうで、七重官園で更に栽培・普及されて現在ではこれらの品種が生産されているそうです。紅玉は酸味が強いんですけど、王林って甘くて美味しいんですよね・・・。
 あと、本施設を囲む様にして野草園や果樹園があり、観覧を終えた後にぐるっと一回りしても良いでしょうね(駐車場側に近い場所ではリンゴとブドウの見本園がありました)。

牛舎

 出口付近に牛舎の一部が再現されていました。
 牛舎の形状も和風ではなく洋風建築となっており、こちらの牛舎はアメリカの大学のキング博士が考案した「キング式牛舎」と呼ばれ、和風建築の様な大きい柱や梁を使わずに薄い板を組み合わせたバルーンフレーム構造が特徴との事でした。
 尚、このキング式牛舎の特徴は屋根の構造だけではなく、建物内の給排気システムにまで及んでいたそうです。

 内部には関連する展示品も綺麗に並べられていました。

 これがキング式牛舎の屋根の構造だ!
 確かに梁とかが薄い木材同士で張り合わさって構成されていますね。これなら太い木だけではなく、細い木からも材料が取れるので色々と効率的ですよね。

企画展示室

 先にも触れましたが概ね年5回程度の企画展示をされているそうで、来館した際には「新収蔵資料展」が行われていました。
 この企画展は、平成29年(2017年)から平成31年(2019年)に掛けて収集した資料の内、保存整理作業を終えた収蔵資料の一部を展示・公開し、本施設の仕事の一端に触れて貰う意図があるそうです。
 確かにスペース的にも常設展示室での展示は難しいかも知れませんね。そんな訳で、こう言った機会じゃないと観覧出来ない展示内容となっています。

 七飯町に関連する収蔵品です。全ての展示品に収蔵品の説明と、それをどうして収集したのかの理由までが書かれていました。

 常設展示室の「冬のコーナー」でも登場しました、大沼での氷を切り出す際に使用された鋸です。
 因みに、現在ではチェーンソーを使用しているそうです。へー・・・。え、今でも氷の切り出ししてるの? まだ製氷機が無いの? と、思ったら冬になると大沼で「雪と氷の祭典」が開催されているらしく、その祭典で使用される滑り台の材料として切り出されているそうです。
 元々の目的とは異なりますが、文化としての氷の切り出しが残されているのは良いですよね。

 比較的に新しい内容・・・でも無かったです。戦時中の訓練に使用された木銃とか展示されてますし。

 北海道胆振(いぶり)東部地震では甚大な被害が発生してしまいましたが、未だ復興を終えていないのが現状です。マスメディアの悪い点ですが、どーでも良い芸能関係のニュースを取り上げるよりも、もっと掘り下げて報道するとか継続して報道するとか、そう言った姿勢が大事だと思うんです。
 胆振東部だけではなく、他にも被災して苦しんでいる方々が全国各地におられると思うんですよね。震災前には決して戻らないですが、地域を越えて出来る支援だったりとか、そう言った事を報じるのもマスメディアの意義の一つではないかと。期待するだけ無駄かも知れませんが。

 掛け軸と錦絵が展示されていました。本施設では日本美術の収集もされているそうです。死蔵してしまうより、きちんと管理出来る場所で永く後世に残せた方が良いですもんね。

 こちらは江戸時代の錦絵を画集にした展示でした。パノラマ撮影したので違和感がありますけど、もっと腕を上げるから暫く我慢してね!

 覇気を全く感じられない桃太郎一行ですが、鬼から巻き上げた財宝とかが描かれていないと言う事はこれから鬼ヶ島へと向かうものと考えられます。周囲の物言わぬ圧力で渋々行かされている感が強いのもアレなんですが、犬が二足歩行しているのもアレです。この掛け軸が描かれた目的は一体何なんだ。

 昆虫・鳥類・小動物関連の展示です。
 七飯町では200種類を超える野鳥の観察が出来るそうで、特に鳥類の剥製の収集にも注力されているそうです。

 パネルの説明では「実際の姿勢や枝への止まり方等を特徴的に表した状態」を目標とされているそうですので、良く解りませんが恐らくずっこけている瞬間なのでしょうね。

 このシマエナガも可愛いのですが、個人的には冬の丸々として真っ白いシマエナガが最高です。
虫が苦手な方はご注意下ちい

 七飯町で生息しているトンボの他に、町内では生息していないトンボもついでに標本にして貰ったそうです。

 左は足で踏んでドラムを回転させる脱穀機で、右は発動機内蔵の脱穀機です。高いでしょうけど省力化になって便利になったかと。

 これは「ミルク分離機」と呼ぶ機器との事で、脱脂粉乳を作れるらしいです。ただ、現時点では使用方法等は不明との事でした。

 七飯町内から出土した石器・土器や、撮影当時(大正~昭和)の生活の様子が判る写真、大阪万博の記念メダルです。記念メダル・・・? 何でもアリなのかな?

 七飯町の遺跡群です。こんなにあるんですね。まぁ、気候も温暖で森に囲まれていて内陸側なのに大沼もあるから住み易いのでしょうね。

「七飯町・歴史館」のまとめ

  • 近代農業の先駆けとなった七重官園について解る。
  • 余り見掛けない展示品が豊富。そして展示品がすげー綺麗。
  • 解説の一部が詩的。

 落し物もきちんと展示。恐らく100年後には企画展示されてます。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

fourteen + eleven =