【函館市】北方民族資料館(No.061)

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 色々と更新のペースが遅くなっている為、施設の情報とか施設の概要のみご案内している場合があります。詳しくはお知らせをご覧下さい。

2F・展示室2

 展示室2では「北の神々」と題して、宗教儀式について展示されていました。

 中央には「イクパスイ」と呼ばれる、アイヌ文化の神々にお神酒を捧げる際に使用された木製品が大量に展示されていました。
 尚、アイヌと一口に言っても樺太アイヌ、千島アイヌ、北海道アイヌと分かれているそうで、この展示品は樺太アイヌの物との事でした。

 平面的な物もあれば立体的に掘り込まれた芸術品みたいな形状まで多種多様で、用途によって形状が変わるそうです。又、一度の儀式で燃やしてしまう1dayイクパスイみたいな使い方もされたそうです。

 サハリンのウィルタ族のシャーマン(呪術師)が使う、帽子、太鼓、バチ、帯が展示されていました。リズムを刻んでトランス状態に入るんでしょうかね。

 上段は北海道アイヌで使用されていた太刀で、下段は樺太アイヌ、ウィルタ族で使用されていた木偶です。木偶はお守りや玩具、儀式に使用されていたそうです。

 鞘の装飾が細かくて素敵。アイヌ文化では金属加工はしていない筈ですので、これらは本州からの交易品なのでしょうね。

 ウィルタ族の「セワ」と呼ばれる木偶との事ですが、夜中に勝手にガタガタと動きそうで怖いんですけど。

 こちらは北海道アイヌの儀式の際に用いられた品々です。金属・ガラス製品と同じく、漆器製品もアイヌ文化では交易品で入手していたそうで、数が多ければその家の財力を誇示出来たそうです。

 幕別町蝦夷文化考古館の方に教えて頂いたんですけど、アイヌ文化では家紋の入った漆器が喜ばれており、調子に乗った和人は一つの漆器に複数の家紋が入った製品とか普通に作ったそうです。海外で作られている適当な日本製品みたいで笑える。

 アイヌで指すところの「イオマンテ(熊送り)」です。熊送りはアイヌ限定ではなく、かなり広範囲で行われていたのですね。それだけ熊は恐ろしいモノだったのでしょうかね。いや、実際に恐ろしいんですけど。熊の恐ろしさを知りたい方は苫前町郷土資料館へ。
 因みに、図には「飼い熊型」と「狩り熊型」と記載されていますが、前者は小熊の頃から飼育して熊送りする方法で、後者はそこら辺に居る熊をハントして熊送りする方法です。後者の方が命懸けですね。

 制裁と言うか止めを刺しに来てる様な。これでお肉を叩いたら柔らかくなって食べ易いと思います。

 先にも書きましたが、本施設は日本銀行函館支店として建造されたとの事で、当時に使用されていた排煙窓の開閉用のハンドルを差し込むポートが残されていました。この様にちょいちょい館長談話が差し込まれています。

2F・展示室3

 展示室3では「くらしの中の手仕事」と題して、生活用具類が展示されていました。
 丁度この時、会社から電話があってお仕事の話をしていたのですが、そのお陰で中央の展示物の撮影を失念すると言った失態をしてしまい、そこら辺は各自で実際に行って確認して頂きたく思います。あ? 壷だよ、壷。くしゃみしたら中から大魔王とか何か出て来るんじゃねーの?(適当)

 弓矢、銛、槍等の狩猟道具です。一口に銛とか弓とか書いてますけどかなり複雑な構造になっており、イラストで使い方が描かれているので解り易かったです。

 こちらは狩猟の様子を捕獲から解体まで、緻密にセイウチの牙に描かれたものでした。
 実際にどんな気持ちで描かれたのかは解りかねますが、セイウチ漁の様子をセイウチの牙に描くのは仕留めた獲物に対して感謝の意味を込めているのでしょうかね。

 こっち見んな。

 こちらも狩猟道具です。生活の大半が狩猟でしょうから、アイテム数も増えるのでしょうかね。
 弓なりになっているのは1人用の犬ぞりで、その手前のはスキー板です。ベースは木材で、外側に海獣の皮を貼り付けているそうです。様似町様似郷土館にスキー板が展示されており、裏側にはアザラシの毛が植毛されてあって反対方向には滑り難くなる様な工夫がされていましたが、皮にも「目」がありますから展示されているこちらのスキー板も一方向には滑り難い様にされているかも知れませんね。
 因みに、階段状に展示されているのは喫煙具です。上から灰皿、煙草入れ、煙管です。

 これは「マキリ」と呼ぶ小刀で、文様を彫るのに使用されていたそうです。因みに、このマキリに施された文様もマキリで彫られたそうなんですけど、それでは最初のマキリには・・・? 卵が先か鶏が先か的な。
 話は全く変わるんですけど、槍が展示されていてちょっと思った事がありまして、ロンギヌスの槍がそれと知らず海外の何処かの地方の資料館に普通に展示されている可能性もありますよね。聖杯とかにも同じ事が言えますけど。余談でした。

 左から、へらや杓子やお盆、鞄類、楽器です。お盆に彫られた文様も綺麗でしたが、地味にへらとか杓子とかにも綺麗な文様が彫られていました。日々使う道具だからこそ、猫グッズを買ってしまう中の人みたいに拘りがあったのでしょうね。

 中央の肩掛けポーチはウィルタ族で使用されていたとの事で、ベースはトナカイの皮で作られており、細部まで装飾が施されていました。デザインそのままで材質と色合いを変えたら他の地域でも人気が出そうですよね。

 何かを仕留める武器ではなく、きちんとした楽器です。Vシェイプのエレキギーターみたいなのは三弦琴(バラライキ)で、エクスカリバーみたいなのは五弦琴(トンコリ)です。
 下段に展示されているのは口琴の一種で「ムックリ」と呼ばれており、竹で出来た本体を口に咥えて糸を引っ張り振動させて音を奏でる楽器です。通常はビョーンビョーンと鳴るんですが、慣れないと糸が引っ張られる音しか鳴りません。何回かチャレンジしたのですが残念な中の人には無理でした。
 ※参考動画

2F・展示室4

 展示室4では「北方民族資料」と題して、本施設で展示されている資料に関しての説明がありました。

 本施設で展示・保管されている資料の数々は、大きく3種類に分類されるそうです。
  • 函館博物館旧蔵資料
  • 馬場脩(ばば・おさむ)氏による馬場コレクション
  • 児玉作左衛門(こだま・さくざえもん)氏による児玉コレクション

 尚、本ウェブサイトでは特に説明はしておりませんでしたが、各展示品にはどれがどのコレクションなのかが判る様な目印がされています。

 明治時代の開拓使であるホーレス・ケプロン氏の進言によって図書館と博物館の設置が決まり、明治12年(1879年)に函館支庁仮博物館が開館したそうです。やるじゃんケプロン。
 その頃からコツコツと蒐集された資料は寄贈された品々も含んでおり、これはその目録との事でした。

 馬場脩(ばば・おさむ)氏は函館出身で、昭和5年(1930年)から昭和16年(1941年)まで7回に渡り現在の北方領土を含む択捉、千島、樺太等々を独自で調査し、資料の蒐集を行ったそうです。その数は実に2,000点。しかし、昭和20年(1945年)の東京大空襲によって758点の資料を残して半分以上が焼失してしまったそうです。
 昭和46年(1971年)に函館市立博物館でカラフトアイヌ展が開催された際に馬場コレクションが初公開されたそうで、その際に「私とアイヌ土俗品」と題して寄稿された一文を抜粋します。

 「私の集めたアイヌ土俗品なるものは、実は、彼らの先祖からの宝物としていたもので、なにを好んで、彼らが一面識もない我々に大切な宝物を手放すのかと言うと、これは貧なる一字に帰するのであった。私共の集めた物には、いいあらわし難い彼らの哀愁がこもっているのである。(中略)せめても、消えてゆく彼らの遺産だけでも、長く保護してやるべき途を講ずるべきではあるまいか。」

 要は「各地のアイヌから蒐集した資料は彼らの代々伝わる宝物であって、消え行くアイヌ文化の遺産だけでも保護したい」との事で、我々が資料館とか博物館で見掛ける展示資料はアイヌ文化では先祖から伝わる大事な宝物なんですよね。
 ただ、それらの大事な宝物を手放さなければならない主たる理由として、日本政府による同化政策によってアイヌの生活様式が一変してしまい貧しくなった為で、生活費に換える為に研究者に売り渡していたり譲っていたそうです。併せて、若年層への文化の伝承が上手く行かず宝物を杜撰に扱われるよりも、きちんとした人に管理して貰った方が良いと言う苦渋の決断もあったそうです。とは言え、それらの理由だけではなく、馬場氏の人柄によるところも大きかったと思うんですけどね。

 児玉作左衛門(こだま・さくざえもん)氏は秋田県で生まれ幼少の頃に函館に引越して来たそうで、後の北海道大学で教授になった傍らで私財を投じてアイヌ文化に関する10,000点を遥かに超える資料を蒐集されていたそうです。又、その大半を函館市立函館博物館と新ひだか町アイヌ民俗資料館に寄贈されたんですって。
 一般財団法人北海道文化財保護協会が発行している「北海道の文化」と言う書籍に「緊急を要したアイヌ研究」と題して寄稿された一文を抜粋します。

 「しかるに終戦後北海道に進駐したアメリカ軍隊の将士とその関係者、ならびに調査や観光のためにきた人々の中には、このアイヌ資料に着目して持ち去るものが非常に多かった。(中略)私は貴重な資料の海外流出を恐れて、商人からできるだけ買いとる計画を立てた。」

 馬場氏とはやや異なる視点からの蒐集ですが、結果として馬場コレクションと同様に大量の資料の流出を免れたのは間違いありません。
 ただ、ニュースにもなっておりご存知の方々もいらっしゃると思いますが、近年になって北海道大学から一部の遺骨や遺品が地方のアイヌ協会に返還されて埋葬し直された事がありました。これは昭和初期(1930年代)に北海道大学を始めとした日本各地の大学が、研究の名目で遺骨を蒐集した事から始まります。蒐集もきちんとした手続きで双方が納得していれば問題は起きなかったのですが、中には盗掘じみた方法で蒐集された遺骨や遺品も多く含まれていたそうで、これによって永い返還運動を経て現在に至ります。
 浦幌町町立博物館では返還された遺骨や遺品について説明・展示がされています(本ウェブサイトでは記載しておりませんが)。

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