【富良野市】博物館(No.090)

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 色々と更新のペースが遅くなっている為、施設の情報とか施設の概要のみご案内している場合があります。詳しくはお知らせをご覧下さい。

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第4展示室・豊かな森と産業

 前述しましたが富良野は約70%が山林なので、何をするにしても先ず木の伐採が必要になります。その為、開拓から現在まで林業は基幹産業の一つで、バイオマス関連としては富良野地区全体の事業になっているそうです。

 開拓当初は馬(道産子)で運んでいた木材ですが、明治33年(1900年)に旭川と下富良野間に鉄道が開通しそこから徐々に機械化されたそうです。写真の機関車は大正9年(1920年)に敷設が開始された森林軌道で使用されたのと殆ど同型との事でした。
 尚、昭和29年(1954年)に発生した洞爺丸台風の風害によって富良野を内包する上川地方で倒木が大量に発生し、それらの倒木を運び出すのに森林軌道だけでは足りなかった為にトラックによる搬出が必要となり、その為に道路整備が進み森林軌道の役目が徐々に減少して昭和35年(1960年)に廃線になったそうです。
 洞爺丸台風の倒木被害については上川町郷土資料館「ふる里たいせつ館」、大火による被害については岩内町郷土館、青函連絡船の被害については福島町青函トンネル記念館でそれぞれ展示されています。

第4展示室・北国の生活

 冬期の北海道では暖房で家中をガンガンに暖めておいて薄着で猫を抱えてアイスクリームを食べるのが一般的ですが(個人差があります)、その為にも暖房器具は必須です。特に昔の家なんか断熱性能が低いので寒かったと思いますよ。
 又、寒冷地では暖房が無いと生きて行けないので種類も多く、燃料として木炭・石炭・石油・電気と満遍なく取り揃えられています。他にもペチカ等の暖炉的なシステムもありますね。

 年表によると富良野では昭和6年(1931年)にスキー場が開設されたそうです。
 スキー板には種類がたくさんありまして、基本的にスキー板の長さが長ければスピードが増します。若い頃の中の人はスピード重視で普通の長いスキーで雪と戯れておりましたが、加齢と共に反応速度が鈍って森林コースを豪速で滑る様なタイムアタックが危険なのを理解しまして(そもそも森林コースを豪速で滑るのはダメ。ゼッタイ。)、スピードが出にくい短めのカービングスキーに変更したのですが、長いスキー板の時とそんなにスピードが変わらなくて爆笑。危険なので止めましょうね。
 それと青いのはスノーダンプと呼ばれる除雪道具で、これに乗って滑る訳ではありません。乗ったら最後、コーナーを曲がれないので恐らくヤバい事になります。

第4展示室・富良野の大正/昭和

 大正・昭和時代も引き続き開拓が進められていたそうで、その間も第一次・第二次世界大戦があったり米軍による空襲があったり色々と大変な時期です。
 第一次世界大戦後には農産物の暴落とか凶作とかが重なり、全国で地主と小作人の間で地主に収める小作料について一悶着あったのが小作争議ですが、ここ富良野も同様で磯野農場においても争議があったそうです。おーい磯野ー小作しようぜー。

 大戦中では富良野には工場等の軍事施設が無かったのに3回に渡る空襲があり、主に鉄道が被害に遭ったそうです。銃撃を受けた支柱やレールも展示されていました。勿論、人的な被害も多々ありますよ。

 何が、とは言いませんけど、今も変わらないなぁと思います。

第5展示室・教育のあゆみ

 明治32年(1899年)に簡易教育所が設置されたそうですので、開拓が始まったと同時に教育についても注力されていたみたいですね。偏っていたらアレですけど基本的に教育って大事ですもんね。

 心が痛い。

 第二次世界大戦前に、日米関係の改善の手段の一つとしてアメリカから日本の学校に贈られた通称「青い目の人形」です。大戦中は敵国の製品と言う事で強制的に排斥されましたが、それでも密かに保存されていた人形もあり、北海道には20数体が現存しているそうです。本施設の他に知内町郷土資料館、天塩町天塩川歴史資料館、平取町沙流川歴史館、室蘭市民俗資料館「とんてん館」、足寄町郷土資料館、札幌市時計台でも展示されていますが、本施設の人形は極めて状態が良く、大事に保管されていた事が解ります。

第5展示室・郷土の産業と生活のあゆみ

 隣には生活用品や小規模商工業に関する展示がありました。下段中央付近の木製の樽っぽいモノは床屋さんで使われた湯沸かし器との事ですが、ストーブに近い構造なんでしょうかね。

 女性の普段使いの小物から編み物機等が展示されていました。婚礼の際に使用される角隠しも展示されていましたが、そもそも角が出る様な真似をする夫が悪いのでは・・・。

 ここでは富良野市内の歴史的建造物について展示されていました。観覧時の2020年現在では90件もの建造物があるそうで、目安として建てられてから50年経過で歴史的建造物にランクアップし、頑張れば有形文化財→重要文化財→姫路城の様な国宝となるそうです。要はエモい建物と言う事です。
 ここでは90件の中から数件の建造物について、パネルと模型で説明されていました。富良野市内の歴史的建造物の種類は大きく分けて9種類あり、倉庫、企業関連施設、社寺、住宅、鉄道関連、商店、校舎、病院、澱粉製造関連との事です。

 こちらは明治44年(1911年)に建てられた引火性の高い物品を保管する危険物倉庫との事で、駅ホームに設置されていたそうです。
 建物が2つありますが、奥側の建物が危険物倉庫に当たります。建物はレンガ造りになっており、本倉庫はイギリス積みで作られているそうです。レンガの積み方にはイギリス積み、フランス積み、アメリカ積み、オランダ積み等々、10種類程に分類されるそうで、当初は外観が綺麗なフランス積みが主流だったのですが、耐震性とかを考慮してイギリス積みが普及したそうです。尚、レンガの積み方に関しては江別市セラミックアートセンター「れんが資料展示室」にて詳しく学ぶ事が出来ます。

 郷土のお祭りとして、富山県にルーツのある富良野獅子舞や、かつてあった神楽について展示されていました。移住された方々は故郷の風習を忘れずに大切にされていたのでしょうね。
 尚、富良野市は北海道のほぼ中心に位置する為に、自他共に認める「北海道のへそ」を名乗っておりまして、例年の夏には北海へそ祭りが開催されています。尚、2022年のテーマは「踊る門には福来る ~子どもが踊りたいって言ってるでしょうが~」との事で、北の国からに引っ張られ過ぎなんじゃないかなーと思う次第です。
 但し、本施設では北海へそ祭りについては展示されていませんでしたので今後に期待ですかね。だって50年以上前からやってるんですから、もうそろそろ展示されても良いでしょう。
※参考動画

第6展示室・戦後のあゆみ

 戦後の間もない頃から平成になる直前までの様子が展示されていました。
 ご存じの通り、戦後はあらゆる物資が不足しており国からの配給では普通の生活どころか生きる事すら成り立たない為に配給以外で流通する非合法の物資に頼らざるを得ず、それらを販売する場所・行為を称して闇市(ヤミ市/ヤミ)と呼びますが、本施設ではその闇市を再現した展示がありました。他の施設ではパネル等での説明をちょいちょい見掛けますが、再現展示は初めての様な気がします。
 闇市で思い出しましたが、当時の裁判官が違法な闇市で物資の調達を行うのは法に反すると言う理由からそれらを拒否し、栄養失調により亡くなられた方々もいらっしゃいます。殉職ですよね・・・。

 こんな感じです。年代毎に大まかな年表とその頃の世俗・風俗や生活用品も同時に展示・説明されているので、非常に解り易くすんなり頭に入って来ます。

 こんな後半でピンク・レディーの伏線が回収されるとは思わなかったでしょう? 僕もです。

 所謂「インベーダーゲーム(正しくは「スペースインベーダー」です)」の筐体も展示されていました。記憶にある筐体は天板が黒いんですけど、白いのって後期型なんですかね。

 女性のファッションについて説明されているコーナーで展示されていた本には、自分で作る事が出来る様に図面が描かれていました。当時は自分で作ったりお直しするのが当たり前だったのでしょうね。あと、マンガに見る当時の流行として、中の人は「黒サザエ」と呼んでいる風刺の効いている頃の4コマ版のサザエさんも展示されていました。

 ここら辺は中の人の思い出深い昭和50年代の頃です。26歳ですけど。ファミコンはボタンが丸型なので後期型でした(ソフトは解り易くスーパーマリオでした)。単純ですけどそれが面白かったゲームウォッチとか懐かしいですよね。ボールとかドンキーコングとか。折り畳みのタイプとか持ってました。
 あと、ここでは写真を出しませんけど昭和20年代頃のコーナーにはカストリ雑誌も展示されておりました。まぁ表紙だけなのでセーフ。

 他所で見掛ける様な「とりあえず色々と置こう」みたいな無理矢理ではない自然な感じで、昭和30年代の一般的な生活風景も再現されていました。

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