【三重県】松浦武四郎記念館(No.1000)

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 色々と更新のペースが遅くなっている為、施設の情報とか施設の概要のみご案内している場合があります。詳しくはお知らせをご覧下さい。

 博物館とか資料館とか記念館とか巡りが大好きな中の人がお送りする、地元北海道内の博物館とか行ったメモ。
 第1000回目は「三重県松浦武四郎記念館」です。

 仕事等の都合で北海道外に赴く際にも博物館とか資料館とかを忘れないのが中の人クオリティ。そんな訳で、北海道外の博物館とか資料館とかは1000番台で始めたいと思います。なんでもそうですが仕様が異なると似た製品でも型式や品番が異なるのと同じです。なので第1000回目ではないのですがそこは大人のアレと言う事でご理解頂きたく。
 そして記念すべき北海道外の博物館とか資料館のご案内の第一回目は俺達の松浦武四郎です。松浦武四郎氏は三重県が生誕の地なので、中の人が召される前には行きたいなーとは思っておりましたが意外と早く行けたので思い残す事はありません(あります)。

施設情報

施設名:松浦武四郎記念館
場所:〒515-2109 三重県松阪市小野江町383
URL:https://takeshiro.net/
休館日:月曜日・年末年始他
開館時間:9:00~16:30
料金:無料
必要見学時間:40分
観覧年:2023年

施設概略

 我らが北海道の名付け親(名称の着想の地は北海道命名之地です)である松浦武四郎氏の偉業を称える記念館ですが、本施設ではただの探検家ではない事が学べます。
  • ホールは休憩スペースの他、クイズで学べるデジタルすごろくがあります。
  • 2つある常設展示室では松浦武四郎氏について、企画展示室では松浦武四郎氏に纏わる展示が2ヶ月毎に入れ替わるそうです。

ホール

 難易度高めのクイズですが、じっくり・ねっとりと観覧を終えて全ての情報を頭に叩き込んでいれば大丈夫です。どうして双六なのかは後で解ります。

 縁の深いアイヌ系の書籍もあります。

テーマ展示室1

エントランス

 入口では松浦武四郎氏がお出迎え。その奥は70歳頃に建てた書斎の原寸模型です。

 自撮り棒があれば一緒に記念撮影も。

 こちらは明治19年(1886年)に建てられた「一畳敷」と呼ばれる書斎との事で、その名の通りスペースは一畳しかありませんが説明によると法隆寺・出雲大社・厳島神社・太宰府天満宮等々で使われていた由緒正しい90点もの古材を全国各地からお取り寄せして建てられたそうです。神様同士で喧嘩しないのかな・・・。
 尚、これらの古材の来歴を纏めた「木片勧進(もくへんかんじん)」と言う冊子を明治20年(1887年)に出版したそうです(国立図書館で読めるみたい)。

 中はこんな感じで男の秘密基地みたいでワクワクしますね。でも明治21年(1888年)に亡くなりますので使用期間は短かったみたいです。若い頃から全国各地を旅した松浦武四郎氏ですが、晩年は逆に動かなくても良いこじんまりとしたスペースに落ち着いたのでしょうかね。
 尚、この書斎は国際基督教大学に移築されており、期間限定で特別公開されているそうです。

松浦武四郎氏の生涯

 大きく4つに分けた年表です。松浦武四郎氏は北海道だけではなく、17歳から沖縄県(当時は琉球王国)以外の46都道府県を走破しており、その距離は凡そ20,000km(半分の10,000kmは蝦夷地調査との事)。尚、70歳の頃には富士登山しているらしいです。昔の人の脚力やばい。尚、16歳の頃に家出しましたが見付かって連れ戻されているそうです。
 弘化2年(1845年)に初めて蝦夷地(現在の北海道)へ渡り安政5年(1858年)までの間で計6回の調査を行っているそうですが、その間もあちこちの見聞録的な書物を出版しており、石狩日誌や十勝日誌や天塩日誌等を見ても解る通りの筆まめで、蝦夷地の調査だけでも151冊に上る記録があるそうです。

 先にも書いた通り松浦武四郎氏は全国各地を見聞しておりますが、各地で様々な人に出会い交流の幅も広かったそうです。当然、その中には多数の著名人も含まれており、本施設では代表的な4名の著名人による松浦武四郎評が展示されていました。現代の海援隊にも語って貰えば良かったのに。
【参考動画】

テーマ展示室2

 二つ目の展示室では主に蝦夷地調査についてと、それを囲む様に非凡な才能と努力の人であった松浦武四郎氏を「〇〇の達人」と題して大きく5つのジャンルで解説されていました。

蝦夷地調査の足跡

 計6回の蝦夷地調査の内、最初の3回は個人的に、残り3回は役人として調査されたそうです。個人的に調査って言うのもアレですけど、その実績を認められてお雇い役人に登用されたのですから凄いですよね。尚、以下は第1回から第6回の調査の日程です。
  • 第1回(28歳)・弘化2年(1845年)4月~8月(80日間)
  • 第2回(29歳)・弘化3年(1846年)3月~9月(210日間)
  • 第3回(33歳)・嘉永2年(1849年)4月~6月(57日間)
  • 第4回(39歳)・安政3年(1856年)3月~10月(192日間)
  • 第5回(40歳)・安政4年(1857年)4月~8月(146日間)
  • 第6回(41歳)・安政5年(1858年)1月~8月(203日間)

 実は北海道が一番寒い季節は2月です。現代よりも気温が低いでしょうし防寒対策もほぼ皆無で、当然の事ながら除雪もされていない状況で大変だったと思います。コンビニもありませんし。

 裏側にはアイヌ民族・文化を伝える為に安政6年(1859年)に出版した「蝦夷漫画」が展示されていました。これは北方資料デジタルライブラリーで公開されていますのでご覧下さい。

アイヌの人々との交流

 蝦夷地調査では現地に住むアイヌの人々の協力で各地を探索し、その協力者数は276名なんですって(その内の109名については「近世蝦夷人物誌」で纏められているそうです)。
 松浦武四郎氏はただ単純に蝦夷地を調査しただけではなく、調査結果から得られたアイヌ人の置かれた当時の環境(松前藩等からの搾取)について正し、アイヌ人・アイヌ文化の保全について働き掛けを行った人物でもあります。明治政府からお雇い役人の打診があった際にもアイヌ人が安心して生活出来る様にする事を条件で引き受けたそうですが、搾取する側の商人等の圧力によって実現されなかった為に職を辞し、後に「馬角斎(ばかくさい)=馬鹿くさい」と名乗ったそうです。
 職を辞した2年後の明治5年(1872年)に発行された「西蝦夷日誌」では「心せよ えみしもおなじ人にして この国民の 数ならぬかは(=同じ国に住む人々に対して酷い事すんなや)」と和歌にして詠んだ程、アイヌ人の心に寄り添った人物でした。

旅の達人

 可愛い子には旅をさせろ、と言う訳で旅は人を成長させる可能性が高いですが、中の人は旅をする事によって太りますので人にもよります。
 16歳の時に置手紙を残して家出したら見付かって連れ戻された松浦武四郎氏ですが、その際に書かれた置手紙には「江戸、京都、大阪、長崎、中国か天竺(インド)に行くかも」と書いたそうで、そりゃインドに行くとか言われたら連れ戻しますよね。

交流の達人

 大きく2つに分けて交流の幅が説明されていました。1つは蝦夷地調査に纏わる交流、もう1つは趣味に纏わる交流で、後でも登場しますが松浦武四郎氏は蒐集癖があったそうで、そのジャンルの幅が広くて驚きます。
 蝦夷地調査関連では岩倉具視、大久保利通、西郷隆盛、木戸孝允、勝海舟、吉田松陰等々の歴史上でも有名な人物との交流があり、江戸幕府や明治政府の後ろ盾もあって蝦夷地調査も行い易かったのでしょうかね。元々、蝦夷地調査は対ロシア政策として始められたそうなので、江戸幕府も明治政府も必要な情報を持っている松浦武四郎氏を重用したのでしょう。
 全国各地を旅する事によって様々な人脈を築いたそうですが旅するだけで人脈は築けませんので、旅先で出会った立場・立ち位置・考え方が異なる様々な人物と接する事により、柔軟な思考を得られた松浦武四郎氏の人柄に依るところが大きかったのでしょうね。

描写の達人

 松浦武四郎氏は画家の叔父から絵を学んだそうで、それを活かして生涯で350以上の様々な報告書や記録を著し(その内で100近くの本を出版した)、構成・本文・挿絵等も一人で行うスーパー編集者でもあったそうです。
 先にも触れましたが蝦夷地調査に関する書籍は151冊に上るそうで、有名どころでは十勝日誌・天塩日誌・石狩日誌等を含む「東西蝦夷山川地理取調紀行」でしょうか。これらは国立公文書館で閲覧可能ですので、暇な時に読んで頂きたく。
 読めば解りますが、文章だけではなく挿絵もふんだんに用いられており、蝦夷地の自然やそこで暮らすアイヌの人々についてのイメージが的確に伝わる様になっています。又、ただの報告書だけではなく、楽しんで学べるフルカラーの双六も多々あり、遊び心もあった人物の様です(ガラスケースに展示されているのは「新板箱館道中名所寿語六」のレプリカ)。

伝える達人

 前述の「描写の達人」と被りますが全国各地の旅の記録の他にも、和歌集を編纂したり蒐集したコレクションの纏めた図録を出版したりしています。ただ、その内容がストレート過ぎて松前藩にとって都合の悪い内容も掲載されていた事から生前は出版されなかった本もあったそうです。
 江戸時代末期から明治時代に掛けては特に自由な移動が難しかった頃ですので、松浦武四郎氏の書いた全国津々浦々の旅行記は現代で指すところのブログであり、松浦武四郎氏は有名ブロガーでしょうね。

蒐集の達人

 かなり若い頃から良い意味での古物の蒐集癖があったそうで、特に洋の東西を問わず古銭を集めており、当時の番付にも載ったとの事でした。しかし、ただ蒐集するだけではなくそれらの来歴やイラストを描いて本に纏めたり、かなり几帳面な人物だった様です。マニアの鏡ですよ。
 他にも珍しい鉱物を集めていたそうで、展示中央にあるのは243点の勾玉や管玉を繋いで作った重さ3kgもあって肩凝りになるヤバい首飾りは有名な肖像写真の首に下げているアレです。
 尚、蒐集された900点の古物は三菱が創設した静嘉堂文庫美術館で保存されているそうで、過去には生誕200年記念・松浦武四郎展でも特別展示されたそうです。

企画展示室

 観覧時には「実物資料から広がる武四郎の世界」の企画展示が開催されていました。この企画展は最終日だったそうで、次の企画展は「武四郎とアイヌ」だったそうです。そっちも見たかったなー・・・。
 本企画は松浦武四郎氏の信仰心について展示されており、特に晩年の天神信仰について詳しく解説されていました。ただ、別に年を取ったから信仰心が篤くなった訳ではなく、若い頃には僧侶になっており長崎県平戸にある千光寺の住職を務めています。

 学問の神様(天満大自在天神)と呼ばれる菅原道真(すがわらのみちざね)を祀った25箇所の天満宮に松浦武四郎氏を中心として銅鏡等を奉納したそうで、その銅鏡の裏面に記載された内容を拓本に採って巻物にした実物です(重要文化財)。尚、右から3つ目は太宰府天満宮の裏面です。

 こちらは拓本一覧です。

 前述の25箇所の天満宮の他にも5つの天満宮に巨大な銅鏡(直径1m・重さ120kg)を奉納されており、これは大阪天満宮の裏面の拓本です。それぞれデザインが異なり、和歌も詠まれています。

 巨大銅鏡を奉納した記念品として銅鏡の裏面を印刷した少数の扇子を作ったそうですが、本施設にしか現存していないそうです(これも重要文化財)。

 こちらは「天満宮二十五ヶ所霊跡順拝四五六」と呼ばれる明治19年(1886年)に出版された「霊跡二十五霊社順拝双六」の草稿との事。

「三重県・松浦武四郎記念館」のまとめ

  • 松浦武四郎氏の歩んだ人生や人となり、旅を記した書物や蒐集した古物について展示されている。
  • 北海道の学生の修学旅行先でTLDとかUSJとか学びが無い場所に行く余裕があるならこちらを是非。

次回のお知らせ

 次回はこちらをご案内致します。

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