【利尻町】町立博物館(No.100)

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 色々と更新のペースが遅くなっている為、施設の情報とか施設の概要のみご案内している場合があります。詳しくはお知らせをご覧下さい。

 博物館とか資料館とか記念館とか巡りが大好きな中の人がお送りする、地元北海道内の博物館とか行ったメモ。
 記念すべき第百回目は「利尻(りしり)町町立博物館」です。

 記念回なのでまさかの離島をチョイスしてみました。でも、離島の博物館とか資料館って行くのが本当に大変なんですよね・・・。
 利尻島には元々は四つの町村があり、それぞれ二つの町村が合併して現在では利尻山(所謂、利尻富士)を中心として西に利尻町と東に利尻富士町との二つの町で構成されています。どちらも高級な利尻昆布で有名ですよね。そして今回は西側の利尻町になります。

施設情報

施設名:利尻町町立博物館
場所:〒097-0311 北海道利尻郡利尻町仙法志本町136
URL:https://www.town.rishiri.hokkaido.jp/rishiri/1060.htm
休館日:月曜日
開館時間:9:00~17:00
料金:200円
必要見学時間:60分
観覧年:2020年
撮影枚数:415枚(深い意味は無く今回から何となく撮影した枚数を記載する事にしました)

施設概略

  • ホール展示では主に利尻島の自然について展示されています。
  • 常設展示では利尻島の成り立ちから歴史、産業についてが展示されています。

俺より強い奴に会いに島へ行く


 利尻島と隣の礼文(れぶん)島へは、稚内市からフェリーで向かう事になります。当日は生憎の雨でしたが、島に到着する頃には雨は上がってました。

ロビー展示

 主に北海道の日本海側沿岸部では鰊漁が盛んで、ここ利尻島でも同様だったそうです。又、沖合での鱈漁も盛んだったそうで、約80艘の川崎船が活躍したとの事でした。こちらは利尻の船大工さんが作ったと言う2/3スケールの川崎船ですが、ほぼ実寸みたいな感じなので迫力があります。

 先にも書きましたが利尻と言えば利尻昆布。これは「マッカ」と呼ばれる昆布採取の道具との事で、手前側が持ち手で二股に分かれた部分で昆布を絡めとるそうです。使い方は浜中町総合文化センター郷土資料展示室でも展示されています。

 利尻島はこんな感じで、島の中央部に日本百名山にも選ばれている利尻山(利尻富士)があります。一応の分類は活火山に含まれるらしいのですが、直近の活動が数千年前との事ですので現在は死火山と言っても良いのではないかと。

 利尻島の成り立ちから、島に生息する動植物等の自然に関する内容が展示されていました。とか何とか軽く書いてますけど、実際の展示内容は相当です。

 自由に閲覧が出来る資料も充実。

 展示されている哺乳類の剥製は利尻島に生息して「いない」哺乳類の一部で、展示されているタヌキ、エゾリス、ウサギの他にキツネ、ヒグマ、シカも居ないそうです。島内の人は見る機会が少ないでしょうから、こう言う展示も大事ですよね。
 利尻島にはヒグマが居ない筈だったのですが、明治45年(1912年)に約18kmも海を泳いで来たアグレッシブなヒグマが居たそうで、何とかかんとか駆除したそうで、それの写真が壁に展示されていました。マタギとか居ないから大変だったでしょうね。しかし平成30年(2018年)に106年ぶり2回目のヒグマが利尻島に上陸。この時は駆除する前に見付からなくなったそうで、島から離れてしまったのかどうかは不明ですが恐らく泳いで何処かに行ったのだろうと言う結論との事でした。怖いね。

常設展示

 入ってすぐにトドやアザラシがお出迎え。

島の形成

 海獣の向かい側には島の場所、気候、歴史等が纏められた概要について展示されていました。先史時代には既に人が住んでいたそうで、島内の各所に遺跡が残されているそうです。
 1千万年前に島の土台が形成され、その後の火山の噴火によって10万年かけて現在の島の形状になったそうです。火山噴火予知連絡会の「活火山の定義」で、過去1万年以内に噴火した火山は活火山となる為に現在も利尻山は活火山との事でした。なるほどね。壮大。
 尚、この火山は、太平洋プレートから生まれる通常の火山とは異なり太平洋プレートから遠く離れているのに存在する不思議火山と長らく思われていたそうですが、太平洋プレートがヘソを曲げたのか特殊な条件下で生まれた火山だと平成28年(2016年)にようやく判明したそうです。

和人の歴史

 ここから本格的な展示が始まり、ここでは江戸時代から現在までを解説しています。
 正保元年(1644年)の「正保日本図(利尻富士町利尻島郷土資料館に展示されています)」と言う地図に利尻島が記載されたそうで、嘉永元年(1848年)にマックが登場。
 明治時代に入ると水戸藩の管轄となりましたが、すぐに開拓使に管轄が移行したそうです。その後、6つの村が設定(明治後期には4つの村に統廃合される)されて定期航路も開通して人口が増え続け、昭和に入ると人口が1万5千人を超えていたそうで(ピーク時には2万人超)、主な産業は鰊を中心とした漁業だったそうです。しかし、昭和の中期頃に鰊が獲れなくなった為に人口減に転じて、現在は2,500人を下回っているとの事でした。

先人たち

 次は時代を遡り、特に縄文時代の頃からの利尻島について展示されていました。

 北海道の続縄文時代から擦文時代は全道的に続縄文文化とか擦文文化ではなく、サハリンに近い地域はオホーツク文化と呼ばれ区別されています。ここ利尻もオホーツク文化圏でして、特にサハリンや大陸に近い地域なので影響が色濃く出ているのでしょうね。そんなオホーツク文化の遺跡が島内各地で31箇所も発掘されているそうです。利尻の遺跡分布図も展示されていまして、それを見ると遺跡は隣の礼文(れぶん)島や北のサハリン側に集中しており、実に26箇所。対馬海流が日本海側から北上しますので、その流れで礼文島やサハリンに向かったりしていたのでしょうか。ロマンです。
 写真は沓形(くつがた)地区の亦稚(またわっか)貝塚と種屯内(たねとんない)遺跡から発掘された石器や土器が展示されています。現在の沓形は港ですが、当時も住み易い環境だったのでしょうね。

 こちらは種屯内遺跡から3基発掘されたお墓の内の1基が再現されていました。

 亦稚貝塚から発掘されたトナカイの角で、この角に45ものイラストが刻まれているんですって。マジかよ。

 マジだ。大半は鯨みたいと書かれており、アイヌ人が生活していたそうなのでイオマンテの一環なのかも知れませんね。函館市北方民族資料館でもセイウチの牙にイラストが描かれていたのを思い出しました。

 上記のトナカイの角と同じ場所から4点の土器が発掘されたそうで、その内の2点が展示されていました。
 左側の土器は、土器に模様を彫り込むのではなく、粘土を直線と波形の紐状にして貼り付けて文様としており、道北では余り例を見ないらしいです。右側は10体の動物らしき模様が彫られており、こちらも例が少ないらしいので特別な目的で作られた土器なのではないかと考えられているそうです。

ニシン漁

 先にも書いた通り利尻は古くから鰊漁が盛んで、ここからは漁業の中でも特に鰊漁について説明されていました。
 再現されているのは利尻で一般的な造りだったニシン番屋と、季節になると各地から集まって鰊漁に従事するヤン衆の方々です。マスクして三密を割けて頑張っているんですって(本当に書いてありました)。尚、鰊漁については泊村鰊御殿とまりが詳しいのでそちらもどうぞ。

 文化4年(1807年)には既に利尻と礼文の特産品として、鰊や昆布が知られていたそうです。
 北海道の鰊の旬は春でして、その事から別名で「春告魚(はるつげうお)」と呼ばれておりますが、本州ではメバルやサヨリ等が春告魚と呼ばれているそうです。場所によって獲れる種類が異なりますのでそりゃそうだよなと思う次第です。このジオラマはそんな鰊漁を再現したそうで、水揚げされた鰊を加工場所に運んでいる様子です。
 北海道は主に日本海側で鰊漁が盛んですが、それでも#鰊とか#ニシンで検索して頂くと道内各所の博物館とか資料館とかで紹介されています。
【参考動画】沁みるねぇ・・・。

 これは小廻船(こまわしせん)と呼ばれる、北前船とか弁財船よりも近距離の輸送を行うやや小型の船で、利尻からは鰊を始めとした海産物を天塩(てしお)まで運び、天塩からは製材品や米、味噌、醤油等を運んだそうです。近代ではエンジン付きの船に取って変わられたのと、利尻⇔天塩だった航路が利尻⇔稚内に変更された為に姿を消したそうです。

 鰊漁で使われていた主な道具類です。説明用パネルが青・緑・赤に色分けされていますが、これは「青=海で使う道具」「緑=陸で使う道具」「赤=鰊粕作りに使う道具」と分類されている為です。解り易い。この展示に限りませんが、本施設では細かく説明がされているので博物館初心者にも安心です。ただ離島なので行くまでが大変。

 「モッコ」と呼ばれる木製の運搬用リュックみたいな入れ物で水揚げされた鰊を背負って運ぶのですが、モッコには30kg近くの鰊が入るそうです。ヤバい。腰壊す。そして、この展示されている「万棒」はモッコで何回運んだのかをカウントする為の木札として使用されたそうです。又、時間を惜しんで鰊を背負いながら食事をしていた云々と何処かの資料館で読んだ記憶がありますが、それが何処なのかを忘れましたが。底の抜けた引き出しと同じなので記憶がゴチャゴチャしてます。
 【参考動画】大方の予想通り。

その他の漁業

 ここからは鰊漁以外の漁業の展示です。鰊が気候変動や乱獲の影響で獲れなくなった為、現在はその他の海産物の漁業が盛んです。利尻と言えば昆布ですが、他にもウニとかアワビとかナマコとかタコとかホッケとか獲れるそうです。
 右側の白い船はウニ漁で使用されていた磯船との事で、船のヘリに寄り掛かりガラス箱(箱メガネとも呼ぶ)で海の中を覗き込み長い棒を使いウニをゲットします(アワビも似た様な感じ)。

 こんな感じ。重労働の極み。

 こちらは昆布漁の感じ。重労働の極み。

 フェリーターミナルの食事処で食べられるウニ丼はこんな感じ。至福の極み。

海洋生物

 利尻島の周囲は日本海側を北上する対馬海流(暖流)とロシアから南下するリマン海流(寒流)が流れる為、様々な生物が確認されているそうです。有難い。そう言えば八丈島の資料館でも、黒潮の影響で食べられるか食べられないかは別としても数百種類の魚介類が確認されると説明されていた様な。海流は大事。

 代表的な魚類等。全部美味しそうに見えますよね。

知っていますか?

 ここからは耳寄りな情報をお届けするコーナーです。
 1.「北方警備」
 ロシアがいつも通りの力技で北海道を襲撃するのでその対応としての北方警備を津軽藩や会津藩や秋田藩が担ったそうですが、慣れない土地な上に更に厳しい気候風土の影響で病気で亡くなられた方や帰還の時期に台風が直撃して遭難された方のお墓が残されているそうです。
 2.「密入国事件」
 先にも軽く書きましたが絶賛鎖国中の嘉永元年(1848年)に日本へ密入国したラナルド・マクドナルドが捕まって長崎まで送られて軟禁状態になり、その後は日本の通詞(通訳)に英語を教えて母国であるアメリカに戻ったそうです。尚、その時に英語を教わった通詞がペリーとの通訳をしたそうで、近年はラナルド・マクドナルドが「日本初の英語教師」と呼ばれる様になったとの事です。
 3.「沓形大火」
 昭和39年(1864年)に木造倉庫から出火した火が海風に煽られて瞬時に各所に燃え移り当時の脆弱な消防設備では対応が難しく、街の2/3まで消失してようやく鎮火したのは翌日で236戸の家屋が焼失して2名が亡くなり被害総額が現在の8億円以上と言う甚大な被害が出たそうです。
 
 割と重い内容でした。

生活雑貨

 出口近くにはその他の生活用具等が展示されていました。

「利尻町・町立博物館」のまとめ

  • 基幹産業である漁業について詳しい解説と共に豊富な実物が展示されている。
  • ホール展示と言う名の常設展示が凄い。

 夢に出て来るパターン。

次回のお知らせ

 次回はこちらをご案内致します。

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