【岩内町】郷土館(No.075)

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 色々と更新のペースが遅くなっている為、施設の情報とか施設の概要のみご案内している場合があります。詳しくはお知らせをご覧下さい。

 博物館とか資料館とか記念館とか巡りが大好きな中の人がお送りする、地元北海道内の博物館とか行ったメモ。
 第七十五回目は「岩内(いわない)町郷土館」です。本施設のテーマは「岩内魂」との事で、色々あっても不撓不屈の精神で乗り切るよ!と言う事みたいです。大事な事ですよね。でも、精神力では乗り切れないのが加齢です。ご注意を。

 いきなりの余談ですが、ここ岩内には源義経が来て休憩していたそうです(弁慶の刀掛岩や弁慶の薪積岩が残されています)。

施設情報

施設名:岩内町郷土館
場所:〒045-0022 北海道岩内郡岩内町清住5-3
URL:http://www.iwanaikyoudokan.com/
休館日:月曜日・冬期間(12月~3月末)
開館時間:9:00~17:00
料金:300円
必要見学時間:60分
観覧年:2021年
撮影枚数:414枚

施設概略

 色々と知らない事が多い恥の多い人生を中の人は健やかに送っていますが、本施設でも北海道民なのに知らない事をたくさん知れました。特に日本初の出来事が岩内町に幾つもあるのは驚きです。あ、きちんと撮影の許可は頂いております。
  • 1Fは岩内町の歴史、生活、産業について満遍なく展示されています。
  • 2Fはかなりの量の収蔵資料庫ですが、一般の観覧が可能です。

1F・ホール

 入ってすぐにはホール展示があり、ここでは岩内町の歴史概要が年表等で展示・解説されていました。

 これは川崎船と呼び、様々な漁業で活躍した漁船です。
 ここ岩内町では鱈漁が盛んだったそうで、ピーク時には135隻もあったそうです。川崎船は元は北陸から東北にかけて使用されていたとの事ですが、厚岸町海事記念館の展示によると福井県の川崎村で作られた事から由来するそうで川崎重工とは無関係でした。又、製造地によって何となく形状が違うそうで、展示されている川崎船は右側が越前川崎船、左が加賀川崎船との事で舳先の形状が異なっていました。

 これは、岩内町の隣の泊村にかつてあった茅沼(かやぬま)炭鉱内の坑道から発見されたレールなんですって。
 茅沼炭鉱は安政3年(1856年)に漁師さんが櫓櫂(ろかい/船を漕ぐ為のオール)の材料を採りに山に入ったところ「燃える石」を発見した事により文久2年(1862年)に採掘を開始し、慶応3年(1867年)にはイギリスの鉱山技師であったエラスムス・ガウワー氏(資料によって名称が異なっているみたいです)の提案で日本初のトロッコが導入されたそうです(開通は明治2年)。

1F・展示室

縄文時代

 岩内町は縄文時代の頃は殆ど海中で旧石器時代の頃の遺跡は発掘されていないそうですが、東山地区からは縄文時代前期頃から中期頃の遺跡が発掘されており、これを岩内東山円筒文化遺跡と呼ぶそうです。又、遺跡から発掘されて展示されている遺物は、北海道指定有形文化財に指定されているそうです。
 尚、右側の岩みたいなのは鯨の尾びれの化石との事で、現在は市街地だった場所から発掘されたそうです。

近代

 ここら辺からアイヌ文化期の展示で、アイヌ人と松前藩の交易についてから展示されていました。
 当時の北海道は米作が出来ず年貢としてお米を納める事が無理でしたので代わりにアイヌ人との交易を行い収益を上げていましたが、後に直接取引ではなく本州の商人を介在させて運上金と言う手数料を徴収する様になりこれを場所請負制と呼び、ここ岩内でもかつてその場所があって宝暦元年(1751年)~明治2年(1869年)まで「岩内場所」として運用されていたそうです。
 又、岩内の基礎を親子二代で作り上げた初代・佐藤仁左衛門氏と二代目・佐藤仁左衛門氏についても解説されており、色々と私費でインフラを整えられたりされた名士との事でした。

 これは岩内町の指定有形文化財になった、神社の社額(扁額/へんがく)です(下側の板)。尚、社額とは鳥居に掲げられる表札とか看板とか、それに類するモノと思って頂ければ良いかと。
 岩内町には江戸時代末期頃に現在の熊野神社とは異なる熊野神社があったそうで、当時の箱館奉行の助力もあってその熊野神社を創建する事が出来たそうです。そんな箱館奉行が「熊野」と揮毫したのが展示されている社額なんですが展示されているのは裏面です。
 元々、箱館奉行にその話を持ち掛けたのは地元の樵(きこり)から相談された俺達の松浦武四郎氏で、この社額の裏面には松浦武四郎氏による直筆で署名されており、松浦武四郎氏が来道して調査した件はエピソードとか文献では残されているものの現物が残されていないそうで、そう考えるとこの社額は貴重な現物なんだそうです。ですので「松浦武四郎氏の直筆サイン>箱館奉行の揮毫」となり、展示は裏面になっているそうです。お奉行ドンマイ。
 尚、この社額を鑑定した三重県松浦武四郎記念館でも過去に展示されていたそうです。

鰊漁

 先にも触れた通り日本海側は鰊漁が盛んでして、ここ岩内も鰊漁があったから開基したと言っても過言ではなく本施設でも鰊漁に関する展示の割合が高かったです。
 アイヌ文化期(本州では室町時代)には既にアイヌ人と和人による鰊漁が始まっていたそうで、それは明治時代の後期まで続き、例えば豊漁が続いた明治30年代(1897年~)では1ヶ所(1ヶ統=1かとう)の建網(たてあみ)では最大で現在の6億円に匹敵する売り上げがあったそうで、建網は複数設置しますから相当な金額になったでしょうね。尚、大正14年(1925年)には70箇所(70ヶ統)の建網が設置されていたそうです。ヤバい。

 これは1/15スケールの建網(たてあみ)模型です。陸から凡そ500m離れた位置に設置されたそうですので、意外と近い場所まで鰊が来ていたんですね。尚、解り易いイラストも展示されていましたので、それは足を運んで見て頂ければ。
 鰊漁には建網と刺網(さしあみ)の二種類があるそうで、準備が大変ですが大量に獲れるのが建網漁で、小規模で良いなら刺網漁だったそうです(建網漁では30人程度が必要で、刺網漁だったら6人程度との事でした)。

 これは利尻町町立博物館でも展示されていましたが、漁船から水揚げされた鰊を陸上の加工処理施設まで運ぶのは人力でして、相当数の方々が木製のランドセルみたいな容器を背負って行ったり来たりされていたそうです。その際、何回運んだかを判る様にする為のカウント用の木札を万棒(まんぼう)と呼びこの万棒を運搬する人に渡していたとの事ですが、この万棒の本数で日当が決まったみたいなので休み無く運んでいたそうです。
 ただ、本施設では「番棒(ばんぼう)」と記載されており、説明では「万棒とも称し」となっておりましたので番棒は方言かも知れませんね。用途からすると番棒の方がしっくり来ますが。

 鰊が水揚げされてから製品になるまでの工程図です。解り易い・・・!
 実際には水揚げされてから梱包されるまでは乾燥作業とかあるので二ヵ月程度必要だったそうですが、余す事無く各種製品になっているのが解ります。

 そしてこちらは製品化するのに必要な道具類です。
 大振りな鰊は生食や身欠き鰊として出荷され、小振りな鰊は煮詰めて肥料等にされたそうです。ここら辺の展示は小振り鰊を加工する際に使われたそうで、大釜で煮て圧縮して油を搾り出して搾りかすを肥料に加工して等々で活躍した道具類です。

 岩内だけではありませんが、大正時代後期には鰊の不漁が目立ち始める様になったそうで、昭和初期には岩内では鰊の水揚げがゼロになったそうです。
 少し時間を遡りますが、明治35年(1902年)に岩内沖合でスケトウダラの漁場を発見したそうで、翌年の11月18日に発見者本人が鱈漁に出向いてまずまずの成果を出し、更に翌年には漁船を増やしてかなりの水揚げがあったそうです。徐々に鰊の水揚げ量が減少するにつれ、代わりにスケトウダラの水揚げ量が増えて行き本州に出荷するまでに至るそうです。

 先に当時の鰊漁での売上がヤバいと書きましたが、ここでは鰊の漁場(ニシン場)を持つ親方(経営者)の収入について展示されていました。年代によって相場が異なりますが、例えば10箇所(10ヶ統)の建網を持っている親方の場合には三ヶ月間で8~9億円の収入があったそうです。マジヤバい。ただ、それを全て自分のモノにしてしまう訳ではなく、インフラだったりに私費を投じて地元に社会貢献するのが偉い。そうした人物だからこそ、ニシン場を複数持てる様になったのでしょうね。
 展示されているお雛様は約120年前のモノとの事で、器等は漆塗りで模様は手書きなんですって。近くで見ても新しい様に見えるのですがそれだけしっかり管理されていたのでしょう。あと、奥に見える屏風は普通の屏風ではなく、遠目に見て妙に立体感がある屏風だと思って近くで見たら総刺繍の屏風でした。

 これは岩内の親方が購入した、明治38年(1905年)に西川風琴製造所で製造された現存する国産オルガンとしては最古の品との事でした(平成12年に修復済み)。これ自由に弾いて良いそうなんですけど、流石に怖くて触れないです。

スケソ漁

 館内の順路と異なりますが、前述の様に鰊漁の代わりに鱈漁が盛んになったそうで、ここではスケトウダラ漁について展示されていました。尚、スケトウダラ(介党鱈)=スケソウダラ(介宗鱈)です。訛りなんでしょうかね。ここでは展示に倣ってスケソウダラにします。
 岩内だけではなく他の漁港でも鰊の不漁で大変な事態になっていたそうですが、このスケソ漁で岩内だけは何とか生き延びたそうです。先にも触れた通り、岩内の漁師さんが鱈の群生地を発見してスケソウダラの延縄漁法を開発したのと、スケソウダラは鰊よりも沖合の水深が深い場所で生息している為に手漕ぎ船では無理で発動機付きの漁船じゃないと沖に行けずそうした漁船を係留出来る漁港があったのが決め手との事でした。

 そしてこちらが水揚げされたスケソウダラの干物です。
 この他にも、漁船に搭載された焼玉エンジンとか放送用機材とか諸々が展示されていました。

岩内大火

 岩内だけに限った事ではありませんが、沿岸部は浜風で強風になりますので火事になると一気に拡大します。例えば函館なんかは大火とか多い地域ですし、ここ岩内でも三回の大火を経験されているそうです。
 一回目の大火は安政6年(1857年)5月に230戸中80戸余りを焼く火災が発生したそうです。
 二回目の大火は明治23年(1890年)9月12日との事で、こちらは放火が原因で折からの強風によって被害が拡大して610戸余りを焼き尽くしたそうです。明治17年(1884年)の時点で700戸あったそうですので、90%近くも焼失した事になります。ヤバい。尚、この時の本州の台風でエルトゥールル号が遭難する大惨事が起きてしまいます。
 三回目の大火は昭和29年(1954年)9月26日との事で、所謂「洞爺丸台風」が北海道を直撃した日です。北海道は台風が直撃する事が殆ど皆無な為、台風に対する防備とか準備とかは疎かですので道内各地に被害が出たそうです(例えば上川町郷土資料館「ふる里たいせつ館」でも解説されていましたが倒木の被害とか)。
 この三回目の大火は「岩内大火」と呼ばれ戦後の三大大火と言われるそうですが、元々は台風が来る事を予想して避難した住民の火の不始末から出火したそうで、展示されていた写真パネルを見ると全市街地に焼夷弾を喰らったかの様に炎が燃え盛っておりました。結果として3,298戸が焼失し、街の80%を焼き尽くしたそうです。勿論、被害は家屋だけではなく岩内の収入源であった漁船も94隻が焼失したり大破したそうです。
 二回目も三回目も9月ですが、本州で発生した台風が温帯低気圧に変わり北海道に到達するのが秋頃なので、普通に火災はヤバいんですけど特にその時期の火災はヤバいです。皆様も火の用心を。尚、日頃の準備は伊達市防災センターとか釧路市消防本部市民防災センターとか札幌市市民防災センターとかで学んだ方が良いでしょう。何でしたら最寄りの消防署とかでも色々と教えてくれますよ。

飢餓海峡

 岩内大火後に町内の青年会議所の有志が作家の講演を企画し、その一行に作家の水上勉氏が居たそうです。
 洞爺丸事故がトップニュースになった為に岩内大火は余り知られていなかったそうで、水上勉氏はそこから着想を得て書き上げた「飢餓海峡」と言う推理小説が映画化される事になり、架空の岩幌町のモデルとなったのが岩内町で、それに纏わる展示がされていました。尚、洞爺丸事故に関しては福島町青函トンネル記念館でも詳しく展示されています。

行政と教育

 ホール展示にもあった茅沼炭鉱に鉄製のレールが敷かれて開通したのは明治2年(1869年)で、この年は開拓使が置かれて「北海道」になった年で、ここ「岩内」と確定したのも同じ年なんですって。又、その頃から岩内は栄えていたので開拓使の詰所も設置されたそうで、途中で詰所から出張所になって明治7年(1874年)に会津藩の家老職を代々務める簗瀬(やなせ)家の分家である簗瀬真精(しんせい)氏が出張所の所長に就任されたそうです。途中で転勤になりますが明治11年(1878年)には再び岩内に戻り明治19年(1886年)に退職される期間中に、様々な分野で岩内の発展に寄与されたそうです。
 尚、本施設から車で2分程度の場所に明治時代に建てられた簗瀬家の家屋が現存しているそうで、そのスケールモデルも展示されていました。

 ご自由にご覧下さいとの事なので、尋常小学校修身書を開いてみると「人の過ちを赦せ」とお叱りを頂戴するのが中の人。已むを得ない過ちであれば仕方が無いので水に流す様に努めますが、故意の過ちを赦せる程には人間が出来ておらず。精進します。
 明治7年(1874年)に岩内教育所が開設されたそうで、途中で岩内古宇同修学舎と言う私学も開設されたりしたそうですが(設立者の死去によって閉校)、現在の東小学校と西小学校へと続いているそうです。

繁栄を続ける岩内

 日本海側の道南方面は鰊の不漁によって徐々に衰退しますが、ここ岩内は鱈漁への切り替えが上手く行ったのと茅沼炭鉱があったお陰等で商業が発展を続けたそうで、特に大きく凹む訳でもなく順調に繁栄して行ったそうです。又、隣のスペースでは昭和初期頃の岩内の様子を映した動画が見られます。
 尚、現在の岩内では海洋深層水を採取して多目的に活用しているとの事で、その名も「日本海岩内海洋深層水」とブランド化しているそうです。

岩内の文芸

 岩内には訪れた作家についてや縁の品々が展示されているのですが、中の人は美術・芸術・文学には全く関心が無い為、ここら辺は無知なので殆ど知らない事ばかりでした。極端に有名な人物とかでしたらお名前や幾つかの作品名程度は知っているものの、それでも作品自体を読んだ事が無いのでピンと来ないんですよ。
 尚、大変申し訳ないんですけど興味が無いので当はらわたではご案内しませんが、道内には美術・芸術・文学に関する資料館が幾つもありますので各自でお調べ頂きたく。

 それじゃお前はどんな本を読んでいるんだ、と言う話なんですけど、まだまだ他にもあるのですがこんなロマン溢れる胡散臭い本が大好物です。だからと言って陰謀論者ではありませんのでご安心を。でもエリア51には宇宙人が居ますよ!

 上記の本だけだとやべー奴だと思われるので、ちゃんと普通の本も読んでますアピール。

 夏目漱石が岩内町に22年間も戸籍だけ移していたそうです(戸籍謄本も展示されていました)。
 千円札のモデルが伊藤博文から夏目漱石になった頃の当時の北海道拓殖銀行の岩内支店長から岩内町へと寄贈されたそうです。粋ですね。尚、千円札の番号の「A001871A」とは千円札全体の中でも一番若い1871番との事です。
 実際には夏目漱石は岩内町に住んでおりませんしそもそも岩内町に来た事が無いとの事なので縁も何も無いんじゃないかと個人的には思うのですが、もう良い年した大人だから余計な事は言わない(岩内なだけに)。

北海道初の出来事

 岩内では北海道初となる出来事が4つ紹介されていました。

初ホップ

 本施設の入口には「野生ホップ発見の地」の碑がありますが、明治4年(1871)にお雇い外国人団の一人で鉱山技師であったトーマス・アンチセル氏が、岩内に立ち寄った際にビールの原料の一つであるホップが自生しているのを発見し、これによって開拓使がビール製造を始めるに至ったそうです。明治9年(1876年)には開拓使麦酒醸造所が開業して現在のサッポロビールになります。余談ですが、開拓使のマークは「★」なのでサッポロビールにも「★」が引き継がれている次第です。
 中の人は飲酒しないので味わいとかは判りませんが岩内産のホップと海洋深層水を使用したクラフトビールを味わえる醸造所があるそうです。

初水力発電

 明治時代後期頃の北海道内での発電は火力発電に限られており、それも大都市圏のみだったそうです。しかし、岩内水産組合の武内嘉三郎氏が水力による発電を起案して明治38年(1905年)に岩内水力電気株式会社を設立し(社長は国内の様々な電気会社を勤め上げた三井助作氏)、翌年の10月には岩内で北海道内初の水力による発電を行ったそうです(補助用に火力発電も行った)。
 その後、大正9年(1920年)に帝国電燈株式会社に吸収されてしまいますが岩内の水力発電に刺激されて道内各地に水力発電所が設置される様になり、明治42年(1909年)に竣工した定山渓発電所は道内最古の水力発電所として現在も絶賛ビリビリ発電中!
 こいつ・・・動くぞ!

初漁港

 岩内大火の項目でも触れましたが沿岸部は風が強く、ここ岩内では秋から春に掛けて北西の風だったり南東の風だったりが吹き付けて鰊漁の船が転覆する事が多かったそうです。そこで、国とか北海道とかに港を作る様に要請しましたが「地方の漁港は勝手たるべし(=勝手にやればイイがな知らんがな)」と言う有難いお言葉を頂戴したので、水力発電による発電が始まった年の明治39年(1906年)に町債を発行して北海道内初の町費による漁港建設が始まったそうです。
 因みに、当時の岩内町の予算が現在の10億円程度だったのに対し、途中から国費で賄われたそうですが最終的に港湾工事で岩内町単独では130億円位も掛かったそうです。工事費を鰊漁の税収で賄う予定でしたが、第一期の港湾工事を終えた頃から鰊の不漁が始まった為に財源不足に陥り、大正8年(1919年)には岩内町財政救済請願を議会に提出するに至り、あーこれヤバいねーとか思っていたら鱈漁で命を吹き返したそうです。めでたしめでたし。

 本施設では特に触れられていなかった筈なのですが、明治36年(1903年)に北海道初の漁業組合が組織されたのも岩内なんですって(教育委員会の年表による)。これも道内初の出来事として展示すれば良いのにと思いました。

初アスパラガス

 日本アスパラガス株式会社とはイカれた名前のガス会社ではなく、道内初と言うか日本初のアスパラガス栽培に成功した農学博士の下田喜久三氏が起こした会社です。
 元々、日本ではアスパラガスは栽培されておらず輸入に頼っていたそうで、大正11年(1922)に冷害に強い作物としてアスパラガスを岩内で栽培して大正13年(1924年)11月に日本アスパラガス株式会社を創立したそうです。
 現在は日本アスパラガス株式会社では飲料の生産が主となっているそうで、岩内でのアスパラガス生産が頭打ちになった下田喜久三氏は喜茂別(きもべつ)町での生産を開始して現在は喜茂別町が「アスパラガス栽培発祥の地」を名乗っているそうですが、下田喜久三氏が試験栽培を行った倶知安(くっちゃん)町でも「アスパラガス栽培発祥の地」を名乗っており、面倒だなぁと思う次第です。

1F・企画展示室

岩内地方のアイヌの生活展

 本施設では年3回程度の企画展示をされているそうで、観覧時には岩内地方に住んでいたアイヌ人についての展示でした。
 本来はアイヌに関する常設展示が無いのですがこれには理由があり、前述の二回の岩内大火で街の殆どを焼失してしまい江戸時代から明治時代に掛けての資料が無い為だそうです。その為、展示品の大半は岩内地方ではなく日高地方から買い求めた品々や札幌市北海道博物館からの提供との事でした。

 右側の掛け軸の左側にある茶色い絵図は、明治27年(1894年)に描かれた札幌市北海道博物館が所蔵している「茅沼炭鉱石炭積出しの図」との事で、ホールに展示されていたレールの上をアイヌ人がトロッコを押して進んでいました。アイヌ人と和人が協業していたんですね。それが自発的なのかどうかは知りませんが。

 奥にあるのが祭事用の器で、手前が文庫箱です。ルイ・ヴィトンみたいな複数の家紋がプリントされたデザインですが、本来は家紋は一つのみのプリントです。函館市北方民族資料館でも似た様な展示がありましたが、これはアイヌ人が家紋のデザインを好むので和人が複数の家紋を落とし込んでアイヌ人向け製品として製造・販売したそうです。マーケティングの成功例です。

2F・収蔵庫

 2Fは4つの収蔵庫で構成されており半分は立入出来ませんが残り半分は見放題です。そんな2Fに続く階段には俺達の松浦武四郎氏が岩内を訪れたシーンのイメージ図がお出迎え。

 これだけ展示物を収蔵していたらそりゃ年三回の特別展示をやってもネタが尽きないよね、と思う程の収蔵量です。
 収蔵庫に入ってすぐに岩内町で行われた山口百恵さんのイベントポスターが展示されていました。恐らくは昭和53年(1978年)だと思うのですが、40年以上も前なのに綺麗に保存されていますね。

 そう言えば国鉄岩内線に関する展示が殆ど無かったのですが、大正元年(1912年)に岩内から函館本線に接続する為に開通されたそうです。その後、鰊漁の衰退や茅沼炭鉱の閉山等もあって赤字路線になってしまい、昭和60年(1985年)7月1日に廃止されたそうで、その最終列車のヘッドマークです。

「岩内町・郷土館」のまとめ

  • 建物の見た目からは想像出来ない展示量で凄い。
  • 冬期は休館なのに年三回の特別展示があって凄い。詳しくは郷土館ブログでどうぞ。

 二宮尊徳(金次郎)もマスク。尚、孫の二宮尊親氏は北海道開拓を行った人物でして、詳しくは豊頃町二宮報徳館でどうぞ。

次回のお知らせ

 次回はこちらをご案内致します。

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