【別海町】加賀家文書館(No.053)

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 色々と更新のペースが遅くなっている為、施設の情報とか施設の概要のみご案内している場合があります。詳しくはお知らせをご覧下さい。

 博物館とか資料館とか記念館とか巡りが大好きな中の人がお送りする、地元北海道内の博物館とか行ったメモ。
 第五十三回目は「別海(べっかい/べつかい)町加賀家文書館」です。

 くどい様ですが、別海は「べっかい」「べつかい」のどちらでも良いとの認識らしいので、本はらわたでは昔ながらの「べっかい」でお送りします。だってキーボードで「べっかい」と打つと「別海」で変換されるのに「べつかい」と打つと変換されないんですもん。なので今後は当はらわたでは「べっかい」で統一します。一々読まされる方もお辛いと思うので今後は説明もしません。しませんよ!

 尚、本施設は別海町郷土資料館と隣接されていますので、先に郷土資料館を観覧される事をお勧めします。

施設情報

施設名:【別海町】加賀家文書館
場所:〒086-0201 北海道野付郡別海町別海宮舞町29
URL:https://betsukai.jp/kyoiku/kyoudo/about/kagakemonziyokangoannai/
休館日:第2・4月曜日/第1・3・5日曜日/毎週土曜日他(紛らわしいので要注意)
開館時間:9:00~17:00
料金:300円(隣接されている別海町郷土資料館との共通チケットです)
必要見学時間:30分

施設概略

 隣接されている郷土資料館と共通チケットになっていますので、双方が実質150円なのでお得です。


  • 加賀家五代・100年以上に渡る根室地方での歴史が凝縮されて展示されています。
  • 加賀家から見た当時の様子が記された貴重な資料が展示されています。
  • 加賀家の資料の他に、別海町の歴史やアイヌ文化等の資料も展示されています。

展示室

 外観もお洒落ですが中もお洒落です。
 別海町で「別海町百年史」を編纂中に加賀家の古文書の所在を掴み、そこから七代目の加賀氏から古文書を始めとした貴重で膨大な資料(1,000点余りあるそうです)を譲り受けて展示されているそうです。代々筆まめだったのときちんと収蔵していた几帳面さが炸裂してますね。

時代背景

 そもそも北海道は蝦夷地の頃に松前藩が進出した経緯がありますが、慶長9年(1604年)になるとアイヌ人との交易を幕府から許可され、更にその交易の権利を家臣に分けて藩の運営を行ったそうでこれを「商場知行制(あきないばちぎょうせい)」と呼ぶそうです。
 ただ、松前藩のあった場所は北海道でも本州に一番近い南端に位置していましたので、反対側に位置する現在の根室地方のアイヌ社会との交易は順調ではなかったとの事です。そこで商人に代わりに交易を行わせ、その見返りに運上金(うんじょうきん=税みたいなモノ)を徴収したそうでこれを「場所請負制」と呼ぶんですって。よく、あちこちの資料館とかで「○○場所」とか表記されているのはこれです。あと、アイヌ人と商人との間で諍いが生じて100名以上の方々が殺害されたり処刑されたそうですが、これはまた別の機会にでも。
 その後、幕府が蝦夷地の西部と東部を直轄地として運営していましたが再び松前藩の領地になり、海外からの脅威を感じた為にまた幕府の直轄地としたそうです。そんなバタバタしていた時代です。

 これらの文書は、当時の蝦夷地の歴史・様子が書かれている公文書の写しとの事です。北海道は広いのでメモを取らないと覚えられませんもんね。

加賀家の成り立ち

 加賀家の初代の徳兵衛(とくべえ)さんは石川県出身との事で、当時は石川県を「加賀」と呼んでいたのでそこから加賀家にしたのでしょうね。
 徳兵衛さんは船で蝦夷地を目指したそうで、途中で時化に遭って秋田県に漂着した際にお嫁さんを貰ったそうです。転んでもただでは起きないのは素敵。その後、無事に蝦夷地に入ったそうです。徳兵衛さんの詳細は不明との事ですが、二代目から五代目までは昭和の始め頃まで北海道に貢献されたそうです。

加賀家の職務

 通常、所謂「太閤検地」から始まった米の生産量で石高が決まる石高制で各藩は運営されていましたが蝦夷地では作物が育ち難い環境だった為、例外的に松前藩だけジモティーであるアイヌ人との交易で収益を確保していたそうです。
 各地のアイヌ人が大量の交易品(海産物や毛皮等々)を持参して、交易の場所である松前城下まで来られたそうですけど峠とかあるから大変ね・・・。その際、和人からは米、酒、煙草、金属製品、器等々と交換されたそうです。シントコもそうした交易品の一つだそうです。これをアイヌ語で「ウイマム」と呼ぶそうです。
 その後、取引の形態も変わり先にも登場した「場所請負制」へと移行する訳ですが北前舟でお馴染みの高田屋嘉兵衛(たかだやかへえ)さんら商人は「場所請負人」となって、松前藩にお金を支払ってアイヌ人との交易を始めたそうです。その商人の一人である藤野喜兵衛(ふじのきへえ)さんに明治の初め頃まで仕えたのが加賀家の方々です。別に藤野喜兵衛さんが仙人レベルの長寿とかそう言う訳ではなく「藤野喜兵衛」を代々襲名していたそうで七代目まで続いたんですって。


 別海町郷土資料館でも登場しましたが、別海町で獲れた美味しい鮭を献上したら当時の将軍のお気に入りになったそうで、それから献上鮭の製造が毎年の行事になったそうです。その献上鮭を納める為の木箱も展示されていました。

 アイヌ人との交易でハードルが高かったのは意思の疎通を図る事だったらしく、和人の言葉とアイヌの言葉では津軽海峡よりも隔たりがあり過ぎる為に通辞(通訳)が必要になったそうです。
 加賀家ではその通訳の仕事を行っていたとの事で、日常会話は勿論、交易等の業務で活躍されたそうです。アイヌと和人との間で諍いが生じた際にも双方の言葉を通訳したりとか、ちょっとでも間違えたら争いになるので気を使うお仕事ですよね。

 アイヌ語を通訳する際の自作資料との事です。でも全く読めないので誰か通訳をお願いしたく・・・。

三代目・伝蔵さんについて

 初代・徳兵衛さんから始まり、二代目・鉄蔵さん、三代目・伝蔵さん、四代目・常像さん、五代目・恒吉さんまで、明治時代の初め頃まで蝦夷地で活躍されたそうです。
 何でも加賀家の文書の大半を三代目の伝蔵さんが書き残したらしく、通訳に使用する「和文⇔アイヌ語」の資料の他に、地図だったり公文書の写しだったりと多岐に渡るそうです。又、後年には業績が称えられて「大通辞」の称号を与えられたそうです。大魔法使いみたいでなんか響きが格好良い。

 探検家で北海道の名付け親としても有名な我らが武ちゃん(松浦武四郎氏)とも交流が深かったそうで、出版中の著作とかを送って頂いたそうです。
 伝蔵さんは通辞としての仕事だけではなく、農作物を育てるのには条件が芳しくない根室地方で土地改良やら苦労を重ねて穀物や野菜を初めて栽培したそうです。又、伝染病が流行った際にも種痘を嫌がるアイヌ人を説得して種痘を受けさせたり、儒教の教えをアイヌ語に翻訳して伝えたりと、本来の通訳としての業務を超えた活動をされていたそうです。

古文書以外の資料

 加賀家には文書だけではなく物品も伝わっているそうで、その一部も展示されていました。裃だけではなく、アイヌの伝統文様が入った服が残されているのも興味深いですね。
 2枚目の写真の右側に展示されている品々は、左上が羅針盤、左下が蝋燭立て、中央が紐を通した古銭、右が矢立(やたて=筆記用具入れ)です。

野付半島の遺物

 野付(のつけ)半島の説明は面倒なので別海町郷土資料館をご覧下ちい。

 これは当時の野付半島の様子を表した資料との事です。下の資料は親子で画家だった目賀田帯刀さんが描いた当時の野付の図で北海道大学北方資料データベース(https://www2.lib.hokudai.ac.jp/hoppodb/)で「目賀田帯刀」と検索するとヤバイ数の資料が出てきます。

 上記の資料等を参考にして再現したジオラマとの事です。野付半島からは遺跡も発掘されており、別海町野付半島ネイチャーセンターで遺跡の一部が展示されているそうです。

 ここ野付半島では8つの史跡・遺跡が発見されているそうで、竪穴式住居から江戸時代の建物・道具類まで時空を超えたかの様なラインナップになっています。ここではそれら遺物の一部が展示されていました。

 これは「野付通行屋跡遺跡」と呼ばれる、寛政11年(1799年)に江戸幕府によって設置された通行屋跡の展示です。そう言えば札幌市内にも復元された通行屋がありまして、現在では札幌市簾舞郷土資料館として活用されています。
 「通行屋(つうこうや)」とはアイヌ人との交易所と共に設置された宿泊施設を指し、約14,000点の遺物が出土したそうです。又、近くには北方警備に当たった会津藩士とかの墓石も見付かっているそうです。

収蔵展示室

 順路の途中の収蔵展示室で何か展示されていましたが詳細は不明です。だってこんなの読めないもん(´·ω·`)

「別海町・加賀家文書館」のまとめ

  • 根室地方のアイヌ人と加賀家の係わり合いが判る。
  • 文献が多いので、何が記されているのかは説明を詳しく読まないと何も判らない。いや、本当に普通は読めないから。
  • 展示品の全てがガラスケースに収められているので、近付いてみる時におでこをぶつける事案が発生した。

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