【礼文町】郷土資料館(No.102)

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 色々と更新のペースが遅くなっている為、施設の情報とか施設の概要のみご案内している場合があります。詳しくはお知らせをご覧下さい。

 博物館とか資料館とか記念館とか巡りが大好きな中の人がお送りする、地元北海道内の博物館とか行ったメモ。
 第百二回目は「礼文(れぶん)町郷土資料館」です。

 そりゃ利尻に行ったんだから隣の礼文にも行きますよね。そんな訳で今回ご案内するのは、利尻島からフェリーで約40分離れた礼文島にある資料館です。海を眺めてエモいなーと浸っていたら40分なんてあっと言う間でした。

施設情報

施設名:礼文町郷土資料館
場所:〒097-1201 北海道礼文郡礼文町大字香深村ワウシ958−4
URL:https://rebun-museum.org/
休館日:月曜日(6~9月は無休)
開館時間:8:30~17:00
料金:310円
必要見学時間:50分
観覧年:2020年
撮影枚数:572枚

施設概略

  • 1Fは礼文島の自然や古代文化について展示されています。
  • 2Fは引き続き古代文化や開拓、産業について展示されています。

 本施設は礼文町町民活動総合センター「ピスカ21」内にあり、フェリーターミナルから徒歩2分です。
 あと、本施設に限りませんが、中の人が観覧した当時と現在とでは展示内容が更新されている場合があります。例えば、洞爺湖町洞爺湖森林博物館は建物毎更新されて洞爺湖町中島・湖の森博物館になりましたし、洞爺湖町入江高砂貝塚館も内部がリニューアルされています。その為、今回も観覧当時とは展示内容や位置が更新されておりますので現在とではギャップがあります。予めご了承下さい。そりゃ3年前に観覧したデータですからね。そんな古いのを今更アップと言うのが中の人の流儀。予めご了承下さい。

俺より強い奴に会いに島へ行く2

 利尻・礼文両島に行く為には稚内市からハートランドフェリーで行くか、何処ぞのアグレッシブな熊と同じく泳いで行くかいずれかです。上手くスケジュールを組めば日帰りで両島にある博物館と資料館を見学して稚内に戻れます。実際に戻りました。

1F・展示室

 入口と出口が異なる構造になっていますが、1Fには礼文島の自然、古代文化、遺跡からの出土品等々が展示されています。

礼文島の成立と自然

 礼文島は日本人が住む最北の島ですが、日本の最北端の島となると北方四島の内の択捉島になるそうです。択捉島の方が微妙に北に位置しているんですね。
 利尻島はどちらかと言うと円形に近い形状の島でしたが、ここ礼文島は細長い形状でどことなくクリオネに似ている様な。又、平野部は殆ど無いとの事で、利尻島では車で島の外周を一周出来ましたが、礼文島では一周出来ません(西側に道が無い)。あと、礼文島には「久種湖(くしゅこ)」と呼ばれる湖があり、200m先はすぐ海です。
 あと、礼文島と利尻島との距離は近いんですけど、礼文島は利尻島よりも古く誕生しており、島の成り立ちも礼文島では海底隆起、利尻島では海底噴火とそれぞれ異なるそうです。本当、すぐ近くなんですけど面白いですね。

 念の為にトドと一緒に記念撮影もしておきました。

 礼文島も名前の通り利尻礼文サロベツ国立公園に含まれており、海抜0mなのに高山植物が生えているそうです。それだけ気温が低いんですけど、近くを暖流の対馬海流が流れている為、-20℃を下回る日は少ないそうです。だからと言って暖かい訳ではないです。寒いものは寒いです。
 尚、この映像展示コーナーでは島内から発掘された遺跡についての紹介が見られますが、現在は発掘された重要文化財の展示コーナーになっているそうです。

最北限の先史・古代文化(縄文時代~)

 旧石器時代には人の居た痕跡があるそうなんですが、縄文時代の中期頃までの遺跡が発見されていない事から恐らく人が定住したのは縄文時代中期の後半だろうとの事でした。旧石器時代にそれまで住んでいた人は南北に移動したと考えられているそうですが、まだ痕跡が見付かっていないだけで中の人みたいに面倒くさがって残った人も少数ながら居ると思うんですよね。
 ここからは礼文島内で発掘された遺跡の展示で、島内では18の遺跡が発掘されており本施設ではその内の7つの遺跡について詳しく展示されていました。

 礼文島の北側に位置する船泊(ふなどまり)から縄文時代後期の遺跡が発掘され、これを船泊遺跡と呼ぶそうです。この遺跡からは住居跡やお墓、土器や石器類など大量に発掘され、その内の1,616点の出土品が重要文化財に指定されたそうです。
 この土器類は作業場の跡から発掘された鉢型土器でこれも重要文化財との事ですが、本遺跡からは24のお墓も発掘されていたり、工房的な作業場が6箇所も見付かっているそうです。

 右側は重要文化財の貝製の装飾品で、左側は装飾用の飾りを作る工程でした。材料はビノスガイと呼ばれる二枚貝だそうで、この貝は100年以上も生きるらしいです。ご長寿で何より。
 又、前述の通り多数のお墓が見付かっておりますが、埋葬時の副葬品として貝の装飾品が大量に収められていたそうです。

 縄文人が食べていたとされる動物の骨が展示されていました。
 偏食ではなく単純に狩り易いからだと思うのですが、発掘された内容が、哺乳類では45%がニホンアシカ、魚類では73%がニシン、鳥類では49%がアホウドリ、貝類では48%がエゾイガイとなっているそうで、冬は引き籠っていたのかそもそも島に居なかったのかは判りませんが、冬に獲れる動物の数が極端に少ないそうです。

 そしてこちらは発掘された人骨からゲノム解析されて複顔された縄文人女性です。血液型はA型でお酒に強く、脂っこいモノを食べてもお腹を壊し難い体質なんですって。そう言えばあんまり博物館や資料館には古代のお酒に纏わる展示がされておりませんが、果実酒が作られていた可能性があるそうですよ。
 そして薄っすらとガラスケースに移り込んでいるのは現代人男性です。血液型はB型でお酒は呑まず、脂っこいモノを食べてもお腹を壊し難く若い頃に比べて太り易い体質なんですって。可哀想ですね。

 礼文島では入手出来ないヒスイや貝類、黒曜石製の石器等も発掘されているそうで、海外からはアスファルトを輸入(?)していたみたいです。又、逆に礼文島で発掘されたのと類似した貝製品が本道やシベリアでも見付かっているそうですので、物々交換とかしていたのでしょうね。

 材料だけではなく土器の仕様と言いますか形状と言いますか、例えば北海道南西部で良く見られる様な模様をした土器等、そうしたモノも見付かっているそうです。

 ここら辺から続縄文時代の展示でした。遺跡によっては同じ場所で複数の時代に跨って人が住んでいたそうで、それらを含めて続縄文時代の遺跡・遺物は15箇所から見付かっているそうです。特に浜中2遺跡と呼ばれる遺跡では、縄文時代からアイヌ文化までの遺物が見付かっているそうです。利便性を含めた住み心地が良かったのでしょうね。
 写真の右側に3つ並んでいる土器は、右から道東地方、道北地方、道南西地方で発掘された土器で地域差が解り易い様に展示されていました。形状は置いておいて、近くで見ると模様が全く異なるのが判ります。
 尚、続縄文時代の次は擦文時代へと移り変わりますが、北海道のオホーツク海沿岸ではサハリンの文化等の影響を受けたオホーツク文化が生まれます。

企画展示

 本施設は1Fから入って2Fに行き、再び1Fに戻り出口へと向かう順路になっておりまして、出口付近では企画展示がありましたが1Fなので纏めてご案内します。
 これは未来の考古学者である「礼文ジュニア探検隊」が発掘した調査報告になり、3つのチームがそれぞれ出土品の詳細をイラスト付きで纏めてありました。若い頃からこうした活動をするのは良い事ですよ。たまに中の人が博物館とか資料館の観覧中に最寄りの小学校の社会科見学に遭遇する事がありますが、気付かれない様に先生の話を生徒と一緒に聞く事もあります。どう見ても不審者です。本当にありがとうございました。

2F・展示室

 ここから2Fの展示室です。続縄文時代から続く擦文時代(ここではオホーツク文化)、近代までが展示されています。

最北限の先史・古代文化(擦文時代~)

 先にも書きましたが、北海道は続縄文時代の後に擦文時代へと移行します。しかし、稚内から根室へと続くオホーツク海沿岸部では、サハリンからの影響を受けたオホーツク文化と呼ばれる独自の文化圏が誕生しまして、ここ礼文島もその文化圏です。縄文文化は狩猟・採取で生活していましたが、沿岸部では魚類だけではなく海獣も対象で、ここオホーツク文化圏では更に漁労が発達したそうです。
 島内の香深井(かふかい)地区では特にオホーツク文化の遺跡が多いそうで、この展示では香深井遺跡から出土した住居と土器をセットにして右から古い順に並べられていました。

 前述の香深井遺跡は9つもあるそうで、ここでは香深井5遺跡と香深井6遺跡の遺跡について展示されていました。香深井遺跡ではオホーツク文化の草創期から末期に掛けて満遍なく遺跡が発掘されているそうで、住み心地が良かったみたいです。

 オホーツク文化では漁労と海獣狩猟が中心で出土する遺物には魚類や海獣の骨が多いらしく、クジラやイルカ、トド、オットセイ、アザラシ、ニホンアシカの他、魚類は勿論ウニや貝類とか美味しそうな遺物がたくさん見付かっているそうです。

 北海道には元々はイヌやブタは居なかったそうで、どちらも縄文時代以降に本州とかから愛玩用ではなく食料用として連れて来られた動物だそうです。
 展示されているのはイヌとカラフトブタの骨でして、カラフトブタは名前の通り樺太由来のブタで、礼文島と利尻島を中心とした一部の宗谷地方で見付かっているそうです。

 動物の骨はナイフや釣り針の様に道具として再利用される他に、祭事用やトロフィーとしても飾られているそうで、小ぶりの骨は装飾品にもなっています。左下のは栓抜きかな?

 これはクジラの歯から作られた像で、手前はクマ、奥は女性との事でした。特に女性像は祈りを捧げているかの様に見えるそうで、宗教的な遺物なんでしょうかね。でも中の人にはサイレントヒルのピラミッドヘッドにも見えるのですが。

 こちらは更にリアルになった像で、ディティールアップが凄いです(いずれも浜中遺跡から出土しているそうです)。女性の膝の上には動物らしいのも彫られており、キャプションには「ヒグマのこども?」と書かれておりましたが、実際にヒグマのこどもを膝に乗せると母熊が怒り狂うのでご注意を。
 あと、礼文島と利尻島にはヒグマは生息していない筈なのですが(海を泳いで渡った猛者は過去に居た)、他地域との交流で得られた情報を元にして島民によって作られたとしてはリアルですので、実際にヒグマを見て作られたと思うのですがどうなのでしょうかね。

最北限の先史・古代文化(江戸時代~)

 北海道では擦文時代の次にアイヌ文化期が訪れます。
 以前から蝦夷地は松前藩により管理されておりましたが、通常は諸藩の財源はお米ですが北海道では米が作れない為、北海道では特例として「商場(あきないば)」と呼ばれるアイヌ人との交易によって毛皮だったり魚介類だったりをお金に換えていました。
 当初は松前藩の家臣による交易でしたが、本州の商人が来道する様になると商場での交易権を商人に譲り、その代わりに商人からお金を譲り受ける「場所請負制」へと移ります。例えば利尻・礼文両島では「リイシリ場所」と呼ばれる「場所」が設けられ、そこでアイヌ人と交易を行っていたそうです。
 又、他所からの出入りがあれば離島と言えども疫病ももたらされ、特に免疫を持たない天然痘による被害が多かったそうで数百人も暮らしていたアイヌ人が僅か50年程度で数十人まで激減してしまったそうです。

 アイヌ人からはニシン、サケ、マス、ホッケ、昆布、アワビ、ナマコ、クジラ等が交易品として提供され、和人からは米、鉄器、漆器、衣類等と取引されたそうです。あと、アイヌ人からの交易品は基本的に生鮮ではなく乾燥させた海産物だったそうで、干しアワビ、干しサケ、イリコ(ナマコを煮て乾燥させたモノ)等との事でした。とくにイリコ(煎海鼠)は九州を経由して中国に輸出されていたそうで、当時から中国ではナマコが好きなんですね。余談ですが、アイヌ人は鉄器や漆器の製造はしておりませんのでそれらは貴重な品々として家宝的な扱いをされたそうで、それらが多ければ多いほど裕福で権力があったそうです。
 又、国立研究開発法人科学技術振興機構(長いね!)が提供する科学技術の論文が閲覧できるサービスがありまして、そこで「アイヌの酒」と題された記事が読めるのですが、それによると松前藩との交易でお酒も仕入れていたそうです。更に、アイヌ人はお酒を造る為のお米、麹も所望していたそうで、そう考えるとアイヌ人はお酒造りをしていたのでしょうね。買うより造った方が安上がりで自分好みの味になりますしね。

礼文島の開拓と発展(明治時代~)

 ここから明治時代に移り、明治政府によって開拓使が置かれた頃の展示です。
 特に日本海側沿岸部では鰊漁が盛んで、それで財を成した網元が多く「鰊御殿」と呼ばれる大きな住居兼漁業施設が道内各地に残されておりますが、鰊漁の頃に出稼ぎに来道したり鰊漁の為に本州各地から移住したりする人々も多く、その中でも富裕層が中心となってインフラを含めた生活基盤の構築に尽力されたそうです。その中でも青森県出身の柳谷(やなぎや)の姓を持つ方々が多くいらっしゃったそうで、展示されている様に様々な文献にもその名前が残されているそうです。ノブレス・オブリージュの考え方なのでしょうね。あと、特に柳谷万之助氏は礼文島で初めて漁業を行い漁場を経営されたそうで、礼文島では「移住者第一号」とか「漁場開発の祖」とも呼ばれているんですって。

 生活用具が並んでおりますが、奥の方は昭和時代の展示です。右側上段の箪笥みたいなのは真空管ラジオで、右側下段のロールケーキみたいなのは湯たんぽなんですって。奥の方には古いパチンコ台も展示されてました。

 ここら辺からは昭和時代で、壁面パネルには利尻富士町利尻島郷土資料館でも解説されていた、小樽⇔利尻⇔礼文を結ぶ小樽利礼航路(おたるりれいこうろ)で活躍していた船舶の写真集です。

 昭和の中頃にそれまでの香深村と船泊村の二村が合併して礼文村になり、それから町制施行で現在の礼文町になったそうで、その頃の町内の様子が写真に収められていました。又、その頃には皇族の方々による視察が二回もあったそうで、島内はお祭り騒ぎだったでしょうね。
 昭和23年(1948年)には礼文島で金環日食が観測されたそうで、観測の中心地となった場所に記念碑を建立したそうです。本施設の入口からすぐの「礼文島の成立と自然」にあるジオラマの壁面に写真が並べられておりますが、その中央の写真がその記念碑のニューモデル版(旧モデルは神社に移されたそうです)です。
 金環日食の観測には国内の天文台とか気象台とか大学とかの方々が延で2,370名も参加されたそうです。他にもアメリカの学会とかGHQ(昭和27年まで占領下なので)からも参加していたそうですよ。戦後間もない頃なのであらゆる物資が不足していたでしょうけど、苦労の成果もあって成功裏に終わったそうです。そう言った事を纏めた資料が日本学術会議庁舎の地下から近年になって発見されたそうです。管理が雑なのか資料が膨大で整理が追い付かないのかは知りませんが、まだまだ眠っている資料があるのでしょうね。詳しくは北海道博物館協会の学芸職員部会が運営する「集まれ!北海道の学芸員」と言う道内の博物館とか資料館の学芸員さんでお送りする誠に興味深いウェブサイトの礼文島における金環日蝕観測をご覧下さい。
 先ほど知ったのですが、この学芸職員部会には学芸員は勿論ですが会の趣旨に賛同される方も入会が出来るんですって。マジかよ。でも残念ながら中の人みたいなのは恐らくダメです。

礼文島の基幹産業

 今も昔も水産業が基幹産業の一つとなっておりますが、近年では観光業も盛んで礼文島観光情報では島内の観光や各種イベントについて案内されています。食べ物も美味しいよ!
 そんな礼文島は鰊漁が盛んで、これらが中心となって経済を発展させ、現在の礼文島に至る訳です。途中で鰊の不漁で水産業が大ダメージを受けましたが、現在は昆布やホッケ、タラ、ウニが主流になっているそうです。それと礼文町の公式ウェブサイトを眺めていて知ったのですが、温泉もあるそうです。
 ここの展示では前述の柳谷さんの他に、同じ青森県出身で「礼文王」と呼ばれた駒谷(こまや)さんについても解説されていました。礼文王に俺はなる!(ドーン)と言う訳ではないのでしょうけど、息子さんの代には更に発展したそうです。余談ですが、柳谷さんの開いた番屋は現在は改修されて「桃岩荘ユースホステル」になっているそうで、この「桃岩」にはアイヌ人に伝わる桃岩物語があるそうです。ところで愛とロマンの8時間コース(実際は11時間)って何だこれ。

 奥には鰊番屋を模した展示コーナーがあり、実際に鰊漁や鰊の加工に使用された道具類や当時の盛況さを写したパネルが展示されていました。

 乾燥させた身欠き鰊を纏めて束にする為の「身欠き鰊結束機」とか言う特殊工具も。

 隣には「水産業の昔と今」と題して、現在の礼文島で獲れる魚介類について展示されていました。魚類ではホッケ、タラ、サケ、貝類ではアワビ、ツブ、その他ではナマコ、タコ、イカ、ウニ、毛ガニ、エビ、昆布ですって。魚介の宝石箱やぁ~。しかし、ただ獲るだけではなく養殖したり採取量を制限したり等の工夫をされているそうです。大事。

礼文島の生活・文化

 礼文島には松前郡福島町が起源の神楽舞を良い感じに仕上げた「四ヶ散米舞行列(しかさごまいぎょうれつ)」と言う、80年以上前から伝わる伝統芸能があるそうです。島内にある嚴島神社の例大祭で見られるんですって(毎年7月15日に行われているそうです)。又、先の写真で壁面に飾られている絵馬(7点)は、嚴島神社に奉納された町指定有形民俗文化財との事でした。天岩戸の一下りだったり恵比須様と大黒様だったりの神話の他、安全祈願の為の船の絵馬があり、これらは嚴島神社で公開されているそうです。
 それと礼文島の伝統料理も解説がありましたが、離島の為に天日干しだったり漬けたりする工夫を重ねた保存食の割合が多かったです。

観光業のはじまりと発展

 礼文島・利尻島・本道の幌延町までの一帯が昭和40年(1965年)に国定公園になった事で観光地としての価値が高まり、昭和49年(1974年)に利尻礼文サロベツ国立公園に指定された事で観光業が基幹産業の一つとなり現在に続いているそうです。ここでは当時のパンフレット等が展示されていました。他にも「礼文音頭」「礼文うすゆき草」「礼文情歌」等の礼文を冠するレコードも。

「礼文町・郷土資料館」のまとめ

  • 礼文の歴史から現在までを多数の展示品で解説。
  • 見応えがあるので途中で休憩が必要になるけど安心して下さい。休憩スペース完備してますよ。

次回のお知らせ

 次回はこちらをご案内致します。

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