施設情報
施設名:【千歳市】埋蔵文化財センター
場所:〒066-0001 北海道千歳市長都42−1
URL:https://www.city.chitose.lg.jp/docs/95-43785-169-915.html
休館日:土・日・祝祭日
開館時間:9:00~17:00
料金:無料
必要見学時間:30分
場所:〒066-0001 北海道千歳市長都42−1
URL:https://www.city.chitose.lg.jp/docs/95-43785-169-915.html
休館日:土・日・祝祭日
開館時間:9:00~17:00
料金:無料
必要見学時間:30分
施設概略
ここは千歳市長都(おさつ)にありまして、そこで土器なんです。そうなるともうおさつどきっ(塩バター味)(https://www.uha-mikakuto.co.jp/catalog/snack/sn02.html)しか思い浮かばないんです。そう言う病気なんです。
- 千歳の埋蔵文化財の発掘・調査・保存をしています。
- 千歳で発掘された出土品を展示・解説しています。
- 「千歳市キウス周堤墓群(しゅうていぼぐん)」を含めた北海道・北東北の縄文遺跡群について、世界遺産への登録を目指す活動を行っています。
因みに「彼」は千歳市ママチ遺跡から発掘された縄文時代の土面です。
展示室
外観とは裏腹に、急にシックな装いになります。因みに建物は2階建てですが、2Fはお仕事のブースなので立入りは制限されています。
長都について
先ずは旧長都小中学校を中心として、ここ長都の概略が展示されていました。
旧長都小中学校は明治33年(1900年)に簡易教育所として開校されたそうです。その後、尋常小学校を経て平成17年(2005年)に105年の幕を閉じました。今後、少子高齢化・過疎化が進むと考えられていますので、これから閉校も急速に相次ぐのでしょうね・・・。
旧長都小中学校は明治33年(1900年)に簡易教育所として開校されたそうです。その後、尋常小学校を経て平成17年(2005年)に105年の幕を閉じました。今後、少子高齢化・過疎化が進むと考えられていますので、これから閉校も急速に相次ぐのでしょうね・・・。
この校舎を模したモノはタイムカプセルなんですって。
左の写真は歴代の校長先生との事です。
それと「千歳」の地名の由来ですが元々はアイヌ語で「シコツ」と呼ばれていたそうで(その名残が支笏(しこつ)湖にありますけれど)、文化2年(1805年)に「響きが良くない」との理由で、その頃はここら一帯に鶴が多く生息していたらしく「鶴は千年」の故事に因んで千歳になったそうです。・・・鶴は?
それと「千歳」の地名の由来ですが元々はアイヌ語で「シコツ」と呼ばれていたそうで(その名残が支笏(しこつ)湖にありますけれど)、文化2年(1805年)に「響きが良くない」との理由で、その頃はここら一帯に鶴が多く生息していたらしく「鶴は千年」の故事に因んで千歳になったそうです。・・・鶴は?
※参考動画
昔は存在していた長都沼についてのパネルです。何でも昔は洪水によって氾濫して近隣の農地が荒れて大変だったそうで、とりあえず近くの川と沼を切り離して干拓にしたそうです。それが良いのか悪いのかは判りませんが、現在は雁(がん)を始めとした各種の渡り鳥の中継地点になっているとの事でした。
自然って壊したらすぐには元通りにはならないんですよ・・・。そのまま沼であった方が良かった様な気もしますが、それは恵まれている現代だからこそ簡単に言える事であって、入植・開拓者の方々は生きる為に必死でしたでしょうから一概には良くないと断罪も出来ませんしね。難しいですよね、共生って。
自然って壊したらすぐには元通りにはならないんですよ・・・。そのまま沼であった方が良かった様な気もしますが、それは恵まれている現代だからこそ簡単に言える事であって、入植・開拓者の方々は生きる為に必死でしたでしょうから一概には良くないと断罪も出来ませんしね。難しいですよね、共生って。
千歳が出来るまで
元々、この北海道は海だったらしく200万年前頃に隆起したそうです。その影響なのか金銀の産出があったそうで、比較的に最近(1986年)まで操業されていたそうです。
その後、4万2千年前頃に支笏火山がやらかして支笏湖が完成したとの事です。支笏湖は日本で8番目に広い湖で、2番目に深いんですって。琵琶湖の1/9の広さらしいんですけど道民にはイメージが出来ません。又、鮭の遡上でお馴染みの千歳川は、この噴火の影響で流れが変わって現在に至るみたいです。
その後、4万2千年前頃に支笏火山がやらかして支笏湖が完成したとの事です。支笏湖は日本で8番目に広い湖で、2番目に深いんですって。琵琶湖の1/9の広さらしいんですけど道民にはイメージが出来ません。又、鮭の遡上でお馴染みの千歳川は、この噴火の影響で流れが変わって現在に至るみたいです。
これは先の噴火の際の降灰で蒸し焼きになった木の一部らしく、これを調べる事によって現在の稚内(わっかない)の気候に近かった事が判ったそうです。判るもんなんですね。
石器・縄文・擦文・アイヌ文化
魔方陣が描かれた様なこのコーナーは、石器時代からアイヌ文化までを展示・説明していました。
赤い点は何らかのトラップかと警戒したんですけど、当然の如くそんな面白いイベントもなく。
これは、当時の原寸大の住居跡を再現したとの事で、青色のラインで囲まれたのが縄文時代の竪穴式住居跡、緑色のラインが続縄文時代の竪穴式住居跡、灰色で凸型になっているラインが擦文時代の竪穴式住居跡、丸い点がアイヌ文化の住居(=チセ)の柱の跡なんですって。模型とかで住居が再現されているのは良く見掛けますが、広さを体感出来るのは面白いですね。
因みに赤い点は炉の跡との事でした。主に住居の中心部分に設置されていたらしく、部屋全体を暖めていたのでしょうね。
これは、当時の原寸大の住居跡を再現したとの事で、青色のラインで囲まれたのが縄文時代の竪穴式住居跡、緑色のラインが続縄文時代の竪穴式住居跡、灰色で凸型になっているラインが擦文時代の竪穴式住居跡、丸い点がアイヌ文化の住居(=チセ)の柱の跡なんですって。模型とかで住居が再現されているのは良く見掛けますが、広さを体感出来るのは面白いですね。
因みに赤い点は炉の跡との事でした。主に住居の中心部分に設置されていたらしく、部屋全体を暖めていたのでしょうね。
縄文時代から擦文時代の土器も展示されていました。
やっぱり後年になると技術が発達するのか、これまでのデザインに飽きてくるのか複雑になりますね。
本州から持ち込まれたとの噂で持ちきりの、持ち手の部分がワラビに似ているから「蕨手刀(わらびてとう)」と命名されたらしいです。この蕨手刀は北海道蘭越(らんこし)町で発掘されたらしく、それが何故か千歳市の有形文化財に指定されたそうです。何らかの圧力かな?
こころの文化
ここは「こころの文化」と題されたコーナーで、主にお墓や副葬品について展示されていました。
中央に展示されているコレは縄文時代の「動物型土製品」と呼ばれる国の重要文化財との事です。ただ、何の動物なのかは不明らしくパネルには「皆さんはどんな動物に見えますか」との問い掛けがあり、本当に動物なのかすら怪しいと思うんです。ただ、造形が複雑なのに細かい細工もされており、製作者が本気出して丁寧に仕上げたんでしょうね。
しかしこれは何がモチーフなんでしょうかね・・・用途も祭事か何かに使われた「らしい」ので、これも不明なんですよね。「後世の人が悩むモノを作ったれ!」とか、そんなノリではありません様に。
しかしこれは何がモチーフなんでしょうかね・・・用途も祭事か何かに使われた「らしい」ので、これも不明なんですよね。「後世の人が悩むモノを作ったれ!」とか、そんなノリではありません様に。
左下の土面が冒頭で登場した「彼」です。これは千歳ママチ遺跡から発掘されたそうで、国の重要文化財に指定されているとの事です。この土面は江別市北海道立埋蔵文化財センターにも展示されています。
土面の上のモノは「土版」と呼ばれるモノで、1歳前後の子供の足跡がスタンプされていたそうです。成長の記録の代わりなんでしょうか。あれ、この土面も若しかしたら・・・。
土面の上のモノは「土版」と呼ばれるモノで、1歳前後の子供の足跡がスタンプされていたそうです。成長の記録の代わりなんでしょうか。あれ、この土面も若しかしたら・・・。
麺棒でもマッサージ器具でもなく石から削り出して形を整えた棒で、縄文時代のお墓から出土されたそうです。こちらの石棒は出土数が少ないらしく、用途は不明らしいです。粘土を伸ばす棒とか、そう言う可能性も否定出来ないですよね。だって誰も知らないんですから。
数があれば傾向と対策が練れるんでしょうけど、削って作るのも大変そうなので大量発掘は期待出来ないでしょうね。ドラムスティックにも見えますが・・・。
数があれば傾向と対策が練れるんでしょうけど、削って作るのも大変そうなので大量発掘は期待出来ないでしょうね。ドラムスティックにも見えますが・・・。
こちらも副葬品と思われる擦文時代の土器と、本州から仕入れられた土師器(はじき)と小刀でした。この時代の仕入れ品は貴重でしょうから、それだけにお墓に供える意味は大きいですよね。AMAZONとか無いでしょうし。
こちらもお墓から出土した副葬品との事です。時期的には400年ほど前のアイヌ文化期との事で、亡くなった方が常世での生活に困らない様に実用的な道具等が収められたそうです。頭上からタライが落ちてきても、この鍋を被っていれば大丈夫ですもんね。
こちらも400年ほど前と時期的には同じですが、和人(本州から渡った方々)によるお墓の副葬品との事で内容も異なっており、三途の川の渡し賃とも冥界の旅費とも言われている六道銭(=六文銭)が収められていたそうです。余談ながら一文は現在の価格にして約12~32円との事ですので、出来ればもうちょっと増やしてあげて頂きたく・・・。
この赤い部分は丸小山(まるこやま)遺跡で発見された墓穴を原寸大で再現したものとの事。
縄文時代のお墓では遺体の周囲に弁柄(べんがら)を散布しているのが多く見られるらしく、この赤いのも血痕ではなく弁柄をイメージされたのでしょう。
縄文時代のお墓では遺体の周囲に弁柄(べんがら)を散布しているのが多く見られるらしく、この赤いのも血痕ではなく弁柄をイメージされたのでしょう。
くらしの文化
ここは「くらしの文化」と題されたコーナーで、建物の一番奥に当たります。ここでは生活関連について展示されていました。
約350年前の丸木舟で、市内の下水道の工事中に発見されたそうです。何でも水が湧き出る地層だったお陰で、木材が腐らずに保存されていたそうです。
丸木舟「若さの秘訣ですか? そうですね、やっぱり常に瑞々しい事ですかね」
丸木舟「若さの秘訣ですか? そうですね、やっぱり常に瑞々しい事ですかね」
上が殆ど加工せずに石をそのまま道具として使った礫(れき)石器と、下が削ったりして作った剥片(はくへん)石器です。後者は黒曜石製のが多く見られますよね。
因みに、ここ千歳では小樽市の南側に位置する赤井川(あかいがわ)で産出された黒曜石と、日本でも有数の黒曜石の産地である白滝地区産のが発掘されているそうです。遠軽町埋蔵文化財センターでは白滝地区産の黒曜石について詳しく学べます。
因みに、ここ千歳では小樽市の南側に位置する赤井川(あかいがわ)で産出された黒曜石と、日本でも有数の黒曜石の産地である白滝地区産のが発掘されているそうです。遠軽町埋蔵文化財センターでは白滝地区産の黒曜石について詳しく学べます。
装飾品も櫛、耳飾、首飾りが出土されているそうです。特に復元された櫛なんか猫の形していて可愛い。
※参考動画
千歳市キウス地区から出土された土器で、かなり大型でした。
ここキウスでは、お墓の周囲を土で円形に囲った大規模な「周堤墓群」が発掘されており、例を見ない巨大さにユネスコへの推薦が閣議決定されたそうです。詳しくは千歳市ウェブサイト・キウス周堤墓群について(https://www.city.chitose.lg.jp/docs/95-3227-169-915.html)をご覧下さい。
尚、周堤墓群は江別市北海道立埋蔵文化財センターでも詳しく取り上げられています。
ここキウスでは、お墓の周囲を土で円形に囲った大規模な「周堤墓群」が発掘されており、例を見ない巨大さにユネスコへの推薦が閣議決定されたそうです。詳しくは千歳市ウェブサイト・キウス周堤墓群について(https://www.city.chitose.lg.jp/docs/95-3227-169-915.html)をご覧下さい。
尚、周堤墓群は江別市北海道立埋蔵文化財センターでも詳しく取り上げられています。
本施設から車で10分程度の場所にありますので、こちらの見学の帰りにどうぞ。立ち入りが出来るのかは知りませんが、遠くからは見られるんじゃないですかね。
貝塚
カメラのフレームに収まらない長さの貝塚の剥ぎ取り標本です。長い。
千歳市美々(びび)地区の工事中に貝塚が発見されたとの事で、約6,000年前の縄文時代前期頃だそうです。貝の大半は近くで獲れるヤマトシジミとの事で、同じヤマトシジミと言う名前の蝶も居ますので食べる際にはご注意下さい。
千歳市美々(びび)地区の工事中に貝塚が発見されたとの事で、約6,000年前の縄文時代前期頃だそうです。貝の大半は近くで獲れるヤマトシジミとの事で、同じヤマトシジミと言う名前の蝶も居ますので食べる際にはご注意下さい。
剥ぎ取り標本の手前に大量の貝殻が展示されていまして、これらは貝塚から発掘されたものとの事で実際に触っても良いそうです。
本施設から車で約20分程度の場所に、実は美々貝塚の展示施設があります。基本的に施錠されていますので、展示施設の近くの「環境センター計量所」で鍵を借りてセルフで見学が可能との事です。
詳しくは千歳市ウェブサイト・美々貝塚について(https://www.city.chitose.lg.jp/docs/95-3237-169-915.html)をご覧下さい。
詳しくは千歳市ウェブサイト・美々貝塚について(https://www.city.chitose.lg.jp/docs/95-3237-169-915.html)をご覧下さい。
「千歳市・埋蔵文化財センター」のまとめ
- 原寸大の住居跡が面白い。
- 周堤墓群がユネスコに登録されるとイイね!
記念撮影にどうぞ。
第五十七回目は「千歳(ちとせ)市埋蔵文化財センター」です。
ご覧の通り元は学校で、平成22年(2010年)から一般公開されたそうです。