【厚沢部町】郷土資料館(No.056)

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 色々と更新のペースが遅くなっている為、施設の情報とか施設の概要のみご案内している場合があります。詳しくはお知らせをご覧下さい。

 博物館とか資料館とか記念館とか巡りが大好きな中の人がお送りする、地元北海道内の博物館とか行ったメモ。
 第五十六回目は「厚沢部(あっさぶ)町郷土資料館」です。

 は? 「あっさぶ」と読めない? でも道民は「あっさぶ」なんです。慣れて下さい。

施設情報

施設名:【厚沢部町】郷土資料館
場所:〒043-1113 北海道檜山郡厚沢部町新町234−1
URL:https://www.town.assabu.lg.jp/modules/lifeinfo/content0141.html
休館日:月曜日・国民の休日他
開館時間:9:00~17:00(土・日曜日に限り12:00~13:00は昼休憩で一時閉館)
料金:160円
必要見学時間:40分(映像展示を観覧する場合には+25分)

施設概略

 厚沢部町役場の向かい側に位置し、体育館と図書館が併設されている複合施設です。裏側にはテニスコートも隣接されており、かなり巨大な文化施設の印象を受けました。

  • 大きく8つのブロックに分けて、厚沢部町の先史時代から現在までが展示されています。
  • 必要であれば学芸員の方による解説を受けられます。

エントランスホール

 これは「鹿子舞(ししまい)」と呼ばれる、東北地方から檜山(ひやま)地方へと伝わった伝統芸能を再現した等身大フィギュア群です。鹿子舞には五穀豊穣や家内安全等々を祈願する為の多くの曲があるとの事で、ここ厚沢部町では6つの地区に伝わる6つの舞が各保存会で伝承・披露されているそうです。詳しくはあっさぶの「鹿子舞」(https://www.town.assabu.lg.jp/modules/sightinfo/category0008.html)をご覧下さい。
 本当は音が流れると雰囲気が掴み易いんですけど、図書館と繋がるホールなので迷惑ですもんね。でも、そんなアナタに朗報↓です。
 前述の通り地区によって異なるとの事ですが、こちらの動画はその内の1つである厚沢部町字富栄(とみえい)に伝わる「土橋鹿子舞」との事です。それにしても中腰で30分の長時間を踊るのが辛そう・・・。そもそも「舞」って神様に捧げるものだと思うんですけど、腰が弱い中の人がこれだけ踊っていたら逆に神様になる可能性が。

展示室

 入ってすぐは広いホールになっており、ここでは厚沢部町の自然と先史時代について展示されていました。

自然

 手振れ補正を凌駕する手振れでお送りしてます。禁断症状かな?
 因みに、ここでは特に解説はありませんでした。えー・・・せめて簡単な解説が欲しかった・・・。そんな訳で、中の人がざっくりご案内。
 厚沢部町は面積の約79%を山林が占めているそうで、南西部にある「土橋自然観察教育林」では約560種類の植物が見られるとの事です。後で林業のコーナーでも触れるかも知れませんが、良質な木材を切り出す為に本州から杣人(そまびと=林業従事者)が渡って来たとの事で、そこから農業も始まって現在に至るそうです。
 余談ですが、土橋自然観察教育林には推定樹齢200~300年を超えるヒノキアスナロと呼ばれる巨木が生えているそうで、中でも推定樹齢500年の巨木は「ヒバ爺さん」と呼ばれて厚沢部町の文化財になっているそうです。樹木にも性別があるのは知ってましたが、ヒバは男性なんですね・・・。

先史時代

 厚沢部町ではかなり遺跡が発掘されていまして、こちらは目名尻(めなじり)から出土された縄文時代の小さい集落を再現したジオラマとの事です。手前の青い箱には本物の縄文土器の破片が展示されており、自由に触って良いとの事でした(テイクアウトは厳禁)。因みに、土器の他にも大量の骨や石器も発掘されているそうです。

 尚、手前の方は火を起こしている最中との事でした。・・・ライター要る?

 やっぱり川の近くが住み易いんでしょうね。鮭も獲れますし。

 そしてこちらが出土した遺物の一部です。
 左側は鶉(うずら)ダムの建設工事中に発見された「稲倉石岩陰遺跡(いなくらいしいわかげいせき)」から発見された動物の骨(キツネ・シカ・カワウソ・タヌキ・クマ・イノシシ)との事です。1,000年近くに渡って生活していた痕跡があったそうで、随分と居心地が良かったのですね・・・。何でも低温多湿の天然の冷蔵庫みたいな環境との事で、通常では土に還り易い骨や木の実がそのまま保存されていたそうです。
 中央と右側は各遺跡から発掘された石器・土器の一部です。中央の一際目立つ土器は縄文時代後期頃の「双口土器」と呼ばれる土器との事ですが、何で二つも注ぎ口があるんですかね。つい出来心で・・・とかそう言う訳ではないと思いたいのですが、まぁ何か理由があるのでしょう。プールの授業後に似た様な構造の蛇口で洗眼する事がありましたが、まさか・・・。
 それか、注ぎ口の淵に墨を塗っておいて「ちょっとこれ覗いてみて」「ぷふー目の周りが黒いでやんの!」とか、そんな事は恐らくこの時代ではやらないと思います。

箱館戦争

 ここから箱館(はこだて=昔の函館)戦争のコーナーに関連する展示になるのですが、戊辰戦争に関係する箱館戦争を取り上げただけで半年掛かるのでここではお浚い程度にしておきます。
 そもそも戊辰戦争とはざっくり言うと明治政府軍と旧幕府軍との覇権争いの総称であり、鳥羽・伏見の戦いから始まり明治政府軍に押されて旧幕府軍が北上し、それに伴い戦地も北上して最後は北海道の箱館で終わりを迎える一連の戦争です。


 この城門は厚沢部町の「館(たて)」と呼ばれた地域に松前藩によって築城された「館城(たてじょう)」と呼ばれる城の門かも知れませんが、説明が無かったので詳しくは判りません。因みに、読み方は「たて」であって「たち」ではありません。

 ※参考動画

 そんな澄んだ眼差しで見詰められても・・・。

 裏側もきっちり作り込まれていて素敵。それにしても、この門は何処の城門なのか・・・。

 入ってすぐ目の前に、巨大な館城の再現ジオラマが展示されていました。
 この館城は明治元年(1868年)8月に築城の準備が進められて、9月1日から着工されて10月25日頃に完成したそうです。約55日・・・。準備期間が1ヶ月程度でこの規模の築城が可能なんですね・・・。
 本来は松前城が松前藩の本拠地だったのですが、戊辰戦争が北上する可能性が極めて高く松前城では防御が難しい事の理由等から厚沢部の館に新たに築城されたのがこの館城です。三方を川に、残る一方を山に囲まれた天然の要害を活かした構造になっており、城の周囲を空堀で囲んでこれを「百間堀」と呼ぶそうです。曲輪(くるわ)があって石垣があって天守閣があって~等の一般的な城と異なり簡略化されていますが、大人なら察して。でも、この城は日本最後に築城された和式城郭との事なので貴重なのは変わりません。
 この館城は松前城に続いて旧幕府軍によって陥落・焼失してしまいましたが、現在は国の指定史跡になっているそうです。
 ※参考動画

 ここ厚沢部だけではないのですが、箱館戦争は北海道の南西部に特に影響を及ぼしましたので、あちこちで箱館戦争に関わる事柄があります。ここでは松前藩の成立から版籍奉還までが略年表に記載されていました。
 因みに、展示ケースには陣笠の他に杯や刀が展示されています。

 やだ、イケメン・・・。こちらは松前崇広(たかひろ)氏で、松前藩の12代藩主との事です。38歳の若さで病に倒れたそうですが、外様なのに有能であった為に幕府の老中として抜擢されたんですって。

 こちらは箱館戦争の続きです。箱館戦争の終結=戊辰戦争の終結となるのですが、ここではそこに至るまでの粗筋が展示されていました。

 これは万延元年(1860年)の頃の、当時の北海道が7つの藩によって分割統治されていた区域を色分けした図との事です。非常に判り易い。
 以前に別海町加賀家文書館でもちらっと書きましたが、これで別海(べっかい)町にどうして会津藩士のお墓があったのかが解りますね。

 当時の刀や銃、砲弾等が展示されていました。銃はコルト社製との事で、一部のパーツが欠落していますが恐らく「M1849」と呼ばれる銃なのではないかと中の人は推測しています。


 因みに、館城は11月25日に陥落したとの事ですので、築城から僅か1ヶ月で焼失した事になります。火災保険とかあれば良かったのにね(´·ω·`)
 余談ながら、例年では春先に「館城跡まつり」が開催されているとの事で、エントランスホールにも展示されていた鹿子舞(ししまい)も披露されるそうです。詳しくは世界一素敵な過疎のまち・あっさぶ(https://www.sutekinakaso.com/)をご覧下さい。過疎のまち・・・(´;ω;`)
 でも、それを逆手に取って「ちょっと暮らし」と呼ばれる移住体験事業を行っており、特にその住まいはモダンで斬新なデザインが多く、水道光熱費込みの12万円で1ヶ月間も一軒家を借りられるとの事です。勿論、この「ちょっと暮らし」は厚沢部町だけではなく北海道全域の各地域で取り組まれているそうで、詳しくは北海道で暮らそう(https://www.kuraso-hokkaido.jp/experience/shortstay.html)をご覧下さい。
 北海道は札幌市への一極集中となりつつありますので、道内各地に分散した方が良いのです。そうしないと過疎化が進んだ地域はそこに住んでいる方々の生活にも影響しますし、札幌も混雑しますし。個人的には「札幌はちょっと田舎」位が丁度良いと思っています。

 本施設から車で20分位の場所に館城跡がありますので、お時間に余裕があれば立ち寄ってみて下さい。

開拓・林業のあゆみ

 「自然のコーナー」で説明が無いと思ったらこちらで説明されていましたヾ(*´∀`*)ノ
 説明によると比較的に湿度が低く気温も極端に暑かったり寒かったりせず、四季がはっきりしているそうです。又、樹木の北限と南限が混在しているらしく、前述の「土橋自然観察教育林」は「日本の遊歩百選」に選ばれたそうです。因みに日本百選・都道府県別データベース/日本の遊歩百選(http://j100s.com/yuuho.html)では他の地域もご覧になれます。

 厚沢部町の略年表によると、長禄元年(1457年)に館の付近(現在の新栄との事)に江口氏と言う方が住み着き、文化4年(1807年)には厚沢部町の一帯で221戸787人が生活されていたそうです。
 安政5年(1858年)には江差の豪商であった鈴鹿甚右衛門氏の自費により、厚沢部町と旧・大野町(現在の北斗市の一部)を通す鶉(うずら)山道が開発されたそうです。余談ながら、旧・大野町の役場は現在では北斗市総合分庁舎となっており、そこには北斗市郷土資料館があります。
 時代が明治17年(1884年)頃になると本格的な開拓の為の入植が始まったそうで、愛媛県の山田致人(むねと)氏が現在の厚沢部町字富里において西洋式農業を導入したり病院や学校の普及に尽力されたのを皮切りとして、その後は団体や個人の入植・開拓が各地で行われたそうです。

 こちらは画家の沢田雪渓氏によって描かれた、明治18年(1885年)に行われた鶉山道の拡張・改修工事の様子を描いた石版画(リトグラフ)です。全部で45枚から成り、北斗市の指定文化財になっているそうです。

 先にも書きましたが厚沢部町の約79%は山林との事で、必然的に林業が発達する訳です。特にヒバやトドマツ等の良質な木々が自生しており、松前藩の経営の為に切り売りされたそうです。
 ところでヒバって漢字で「檜葉」と書くそうですが、ここら一帯は昔から檜山(ひのきやま)と呼ばれていたそうで、そこから現在の檜山(ひやま)地方に繋がるのですね・・・。知らんかった。

くらしのあゆみ

 明治時代の民家を再現された展示です。
 この頃になると順調に入植される方々が増えて同時に開拓も行われ、ジャガイモの種類の1つである「メークイン」はここ厚沢部が発祥の地なんですって(碑もJA厚沢部の敷地内にあるそうです)。ただ、大半が関西方面に出荷されるとの事ですので、関西でおでんのジャガイモを食べる際には厚沢部を思い出してみて下さい。まぁ、全部が全部、厚沢部産ではないとは思いますがその確立は高いです。
 又、夏の町内のイベントではメークインをふんだんに使った2mを超える巨大コロッケ作りとかあるそうです。2mのコロッケ・・・敷布団かな?
 以前、何気なくペットショップに入った際にメインクーンを指してメークインとか口走った経験がありますので注意が必要です。あっちはふっさふさ。こっちはほっこほこ。

 それと、地味に厚沢部では稲作も行われており、安政時代から徐々に田の開墾が行われて明治時代に入ると更に品種改良も行われて「ななつぼし」「ふっくりんこ」が生産されているそうです。尚、北海道で生産されているお米に関しては北海道米LOVE(https://www.hokkaido-kome.gr.jp/)をご覧下さい。

 こちらは大正時代の民家を再現されたそうですが、明治時代とは異なりゆとりが生まれたのか生活必需品以外の品々が増えていたり、床板ではなく畳になっていたりするのが特徴でしょうか。

消防・交通・通信

 山林が多い事から山火事もあり、元禄8年(1695年)と明治9年(1876年)には大規模な火災が発生しているそうで、それから暫く経過した明治43年(1910年)に私設の消防組織が誕生したとの事です。火事だけではなく戦時中は警防活動に当たり、水害や空襲等々の災害から住民の方々を守ったそうですよ。
 因みに、手前の消火用ポンプの銘板には「市原喞筒(そくとう)諸機械製作所」と刻印されており、このモデルは全国各地で導入されていたみたいです。

 先にも登場した鶉(うずら)山道ですが、明治18年(1885年)に拡張・改修されてからは馬車や馬橇(ばそり)が通れる様になり、そのお陰で更に奥地の開拓が進んだそうです。
 明治10年(1877年)には既に郵便局が設置されていたらしく、明治24年(1891年)には公衆電話も設置され、昭和9年(1934年)には普通の電話線が開通したとの事です。余談ながら、北海道で最初に電話が開通したのは明治13年(1880年)との事です。詳しくは三笠市三笠鉄道記念館の何処かにクイズ形式で展示されていますので各自でお探し下さい。

商業・学校教育のあゆみ

 厚沢部町での商業についてははっきりとした文献が残っておらず、1800年代の産業の中心は漁撈との事でそれらを近隣の江差(えさし)町で換金して生活必需品等を購入していた記録が残されているそうです。その後、明治36年(1903年)には新潟県から入植された方が雑貨や呉服の商店を経営されていたそうで、そこから徐々に栄えたそうです。
 現在の厚沢部町の主な産業は農業と林業で、道の駅「あっさぶ」では地元で採れた農産物の加工品等が販売されているそうです。厚沢部町を内包する檜山管内には全部で7つの町があり、木材の生産量は今金(いまかね)町に続いて2番目に多いそうです。後、地味に温泉とかも普通にあったりします。

 明治15年(1882年)に5つの学校が出来たそうで、ピーク時には17の小中高の学校が設立されたんですって。
 現在は少子化等の影響もあって学校の数も減少してますが、公営の塾とか3つの保育所を統合した認定こども園ですとか、今でも教育に注力されているそうです。

現在と未来(映像展示)

 木々に囲まれた映像展示室です。「厚沢部の自然と文化(15分)」と「館城物語(10分)」が流れます。ベンチが木製なのが素敵。お尻が痛くなりそうですけど。

「厚沢部町・郷土資料館」のまとめ

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