【北斗市】郷土資料館(No.064)

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 色々と更新のペースが遅くなっている為、施設の情報とか施設の概要のみご案内している場合があります。詳しくはお知らせをご覧下さい。

 博物館とか資料館とか記念館とか巡りが大好きな中の人がお送りする、地元北海道内の博物館とか行ったメモ。
 第六十四回目は「北斗(ほくと)市郷土資料館」です。

施設情報

施設名:北斗市郷土資料館
場所:〒041-1201 北海道北斗市本町1丁目1−1
URL:http://iruka.g.dgdg.jp/bunpoken/siryoukan/kyoudokan.htm
休館日:月曜日
開館時間:9:00~17:00
料金:無料
必要見学時間:40分(特別展示がある場合は+α)

施設概略

中の人「あのー・・・趣味で資料館巡りのブログを書いてるんですけど、ここの館内を撮影してアップしても宜しいでしょうか?」
職員さん「どうぞどうぞ!たくさんお願いします!」

 そんな訳で事前にきちんと許可は頂いたので、今回のおっさんは本気出す。とは言え流石に200枚ある写真は掲載し切れないので、そこからいつも通りピックアップしてお送り致します。まぁ平常運行です。

  • 北斗市総合分庁舎の2Fにあります。
  • 常設展示では北斗市の歴史、昔の生活、産業、文化財、北斗市ゆかりの人物紹介が展示されています。
  • 特別展示は都度の内容変更があります(今回は「松前藩戸切地陣屋跡展」でした)。

 ※参考動画

常設展示室

 階段を登って2Fに行くとずーしーほっきーに案内されます。

 ここでこんな事を書くのも大人気なくて誠にアレで申し訳ないんですけど北海道民以外の方々に勘違いされたらアレなので書きますが、北海道でホッキ貝の水揚げ量が一位なのは苫小牧市なんです。なので、北斗市がホッキ貝を前面に押し出したキャラクターを発表した当初は違和感が凄かったんです。「え? 北斗市? なんで苫小牧じゃないの?」みたいな。恐らく他の方々も同じ様に思ったのではないかと。しかも「最初は苫小牧のゆるキャラだと思っていた」と勘違いしていた当はらわた関係者も居ました。

 でもやったもん勝ちなので。

 とは言え、北斗市のホッキ漁は「ホッキ突き漁」と呼ばれる漁法で、全国でも北斗市でしか行われていないそうです(これについては常設展示室で説明されていました)。因みに、苫小牧市のホッキ貝に関しては苫小牧市ほっき貝資料館にてどうぞ。

 入ってすぐは津軽海峡側から眺めた北斗市のイラストです。

 地図で指すと七重浜(ななえはま)から渡島(おしま)当別までですね。

 受付カウンター前です。ここでは北斗市の概略が説明されていました。

 本施設は横長でして、左から入って奥でUターンして右から出る様な順路です。

北斗市の歴史

 北斗市では旧石器時代の頃の遺跡が2つ発掘されており、完成品は勿論、その材料等々が13点ほど発掘されているそうです。

 ぐでたま、ならぬ管玉(くだたま)です。こんな細い石にこんな細い穴をホールソーも無いのに手作業で開けるなんて、当時の職人さんは凄いですよね。大量生産も難しいでしょうから、やっぱり当時は希少価値が高かったのでしょうかね。

 こちらは国指定重要文化財になっており「人形装飾付異形注口土器」と呼ばれる、縄文時代後期の複雑な形状をした土器のレプリカです。
 途中で2つに分かれているのには何かしらの意味があるのでしょうかね。穴に棒を通して火にくべるとか、宗教的な意味があるのかとか、こう言う異形の土器を見る度に不思議に思います。

 縄文時代晩期頃の出土品で、ミニチュア土器とか装飾用土器とかです。右下のは動物を模した土器で、近付いて見ると大きいのは熊に思えるんですよね。初期のテディベアみたいな手足の長い体形をしていますが。

 ここから近年に入り、戊辰戦争の最後の局面である箱館戦争までが展示されていました。
 元々、ここ北斗市は上磯(かみいそ)町と大野町が合併して出来た新しい市で、上磯町が海側、大野町が山側です(本施設は大野町時代の役場を北斗市の分庁舎として活用されています)。その為、展示されている年表は上磯町と大野町がそれぞれ平行して説明されており、かなり判り易くなっています。
 公式には上磯町の方が古い記録が残されているみたいですが、やっぱり海側の方が人も集まり易いですもんね。

 「松前藩戸切地(へきりち)陣屋跡」と呼ばれる、日本初の西洋式星型要塞の再現模型です。安政2年(1855年)に構築されて、1868年(明治元年)には箱館戦争で消失してしまったとの事です。僅か13年程度の短い期間しか使われなかったので、勿体無いと言えば勿体無いですよね。でも戦争時にはそんな事も言ってられませんので已む無し。
 尚、来館時には特別展として「松前藩戸切地陣屋跡展」が開催されておりましたので、こちらに関しては最後の方に。

 矢不来(やふらい)天満宮跡から出土した、天保3年(1832年)に発行された天保二朱判金(てんぽうにしゅばんきん)です。表面には二朱の文字と桐の図柄が刻印され、裏面には「光次」の文字と花押が刻印されています。
 余談ながら、矢不来天満宮の境内の外で祭られているのは木花開耶姫神(木花之佐久夜毘売・このはなのさくやびめ)で、本人は美人で姉はちょいブサだったそうです。本来は姉妹で嫁いだらしいんですけど、容姿が原因で姉だけが送り返された事によって紆余曲折あり天皇家の寿命が神様と比べて短くなったそうです(古事記)。色々と酷い話です。

 箱館戦争で戦場となった場所から発見された砲弾だそうで、直径12cmで重量は3.2kgとの事です。安全靴を履いていても足の上に落としたら結構な衝撃がありますよ、これ。
 因みに、この砲弾は二股口(ふたまたぐち)と呼ばれる古戦場付近で発見されたそうなんですが、この二股口ってかの土方歳三が新政府軍を喰い止めていたとされる戦場で、若しかしたらこの砲丸を土方歳三が触れたかも知れませんね。ロマンです。
 箱館戦争について掘り下げると長くなるので割愛しますが、明治2年(1869年)に戊辰戦争が終結し、そこから北海道の本格的な開拓・発展が始まります。

 明治29年(1896年)にトラピスト修道院(厳律シトー会・灯台の聖母トラピスト大修道院)が創立された頃から年表が始まります。
 ロシアとは以前より鍔迫り合いみたいな諍いがありましたが、8年後の明治37年(1904年)に遂に日露戦争が勃発。その後は第一次大戦、第二次大戦と突き進み、昭和20年(1945年)8月15日に終戦を迎えます。
 そんな中、大野町では銭湯(鶴の湯)が開業したり、上磯町では男爵イモが誕生したりしています。平和。とは言え戦争の余波も被害も受けてます。

 トラピストクッキーでお馴染みのトラピスト修道院で使用されていた木靴です。これで纏足にはならないでしょうけど、ハードな動きは難しそうですね。修道士がハードな動きをするのかは知りませんが。

 トラピスト修道院は女人禁制の男性修道士のみで、トラピスチヌ修道院は修道女のみが、それぞれ神に祈りを捧げたり聖なる仕事をされています。
 北海道民なら間違わないんですけど、トラピスチヌ修道院ではトラピストクッキーは作られておりません。トラピストクッキーはトラピスト修道院で作られています。でも、トラピスチヌ修道院でもクッキーが作られているのでややこしいですね。又、トラピスト修道院は北斗市ですがトラピスチヌ修道院は函館市です。近いと言えば近いですし同じ宗派の修道院なので混同されがちですが、前述の通り全く異なります。
 尚、トラピストクッキーが有名ですけど他にもバターとか、そのバターで作るバター飴とか、ジャムとかが直営の売店で販売されています。

 写真中央の穴の開いた玉みたいなのは「国策火玉炭」と呼ばれた素焼製のもので、炭と炭の間に入れておくと炭の節約が出来ると言うある意味で優れものです。欲しがりません勝つまでは。
 写真左側の貝殻に柄の付いた様なものは、貝殻に柄を付けた「代用しゃもじ」です。いや、本当に。他にも、更に大きい貝殻を使った代用鍋とかも当時はあったんだからね! もっと言うと、紙を圧縮して固めた紙製ヘルメットとか鉄が無いから陶器で作った水ポンプとかあったんだからね! そもそも「代用」を言い始めたらサッカリンとかズルチンとかもこんにちはしますし、陶器製の手榴弾とか、木製の画鋲とか、そこら辺の植物を焙煎した代用コーヒーとか、大豆以外を原料とした代用醤油とか、兎に角、知恵と技術でカバーした結果、8月15日に終戦を迎えます。
 その後、洞爺丸台風による海難事故を除いて特に大きい出来事も無く、粛々と平成に移ります。

 北海道新幹線の必要性・利便性については置いといて、ここ北斗市には新幹線が停車する駅があります。その名も「新函館北斗駅」と呼ばれるんですが、北斗市なんだから「函館」は関係無いよねと思う次第です。
 そしてこれは新幹線の為に立て替えられた新函館北斗駅の模型で、昔は渡島大野駅と呼ばれたらしく明治35年(1902年)に設置されたそうです。隣の七飯(ななえ)町には新幹線用の総合基地があるとの事です。

 そもそもどうして北斗市に新幹線駅が必要なのかと言う話になるんですが、函館って半島状の場所に位置しており大きく迂回しないとならないので新幹線を通そうと思うと面倒くさいんですって。
 なので、スピードをなるべく落とさずに済むルートとなると、北斗市から函館を通らずに北上するのが理想みたいですよ。木古内(きこない)から函館まで洋上に橋を掛けるのは現実的じゃないので、まぁ、こうなるでしょうね。そうなるといよいよ「新函館北斗駅」の「函館」は関係無いよねと思う次第です。

 ホキホキホキホキー!(ここまで大きくはないですが実際には郵便ポストの上に座っています。いや本当に)

 ほら!

昔のくらし

 大正から昭和に掛けての日用品が展示されていました。

 これは昭和6年(1931年)3月に販売された真空管ラジオで、当時の松下電器(現パナソニック)製の「五球一号型ナショナル交流受信機(R-51)」との事です。この「五球」とは真空管が5つセットされていると言う意味で、他にも三球、四球が販売されていたそうです。
 この五球は三、四球よりも上位モデルとして位置付けられて遠距離の受信が出来たそうで、当然の事ながら価格も上位レベルです。そして本体は漆塗りなんですって。そう言う事をするから価格が上がるのではないかと思う次第です。因みに、このラジオは松下電器の資料館にも置いてないんですって。
 このラジオを本施設に寄贈された方の証言によると、このラジオで玉音放送を聞いたそうです。
 ※参考動画(有名な「堪え難きを堪へ、忍び難きを忍び」は3分26秒から)

 昔の玩具です。おはじき、お手玉、剣玉等々が展示されていました。

 こちらは明治39年(1906年)に創刊された「日本少年」と言う雑誌の、昭和13年(1938年)に発行された第33号の付録の「明日の科学新兵器大戦双六」です。
 ルールは普通の双六ですが「明日の科学新兵器大戦」と題されている様に、当時には存在しなかった「ぼくのかんがえたさいきょうのしんへいき」が描かれています。勿論、現代でも見た事が無い兵器も含まれています。
 順番に書くと、
 1.移動要塞
 2.地中戦車
 3.地中飛行基地
 4.飛行潜水艦
 5.気象変換塔
 6.戦闘球
 7.超豆潜水艇
 8.海底掃海戦車母艦
 9.魚雷投下飛行機
 10.無電操縦有翼爆弾
 11.空中飛行母艦
 12.殺人光線
 13.テレビトロン無電操縦車
 14.飛行タンク
 15.飛行機を発射する大型戦車
 16.地中要塞
 17.長距離電気砲
 18.海底トーチカと海底掃海タンク
 19.火焔戦車
 20.超快速小型戦車
 21.山岳戦車
 22.ロケット戦闘機
 23.航空戦闘艦
 ですって。中には実現されている新兵器もありますが、これは80年以上も前の話ですからね。想像力って大事だと思います。

北斗市の産業

 北斗市の主な産業は農業と漁業と工業との事で、ここではそれぞれがジャンル毎に展示されていました。
 明治17年(1884年)に創業された「上磯セメント(5年後に経営不振になる)」からの流れで「北海道セメント」→「日本セメント」→「太平洋セメント」と現在に至るそうです。現在でも太平洋セメントは上磯地区で操業中で、操業中のセメント工場としては国内最古なんですって。そして、昭和33年(1958年)には上皇陛下が皇太子殿下だった頃に視察されたそうです。
 あと、本当にどうでも良い話で恐縮なんですが、セメントって漢字では「摂綿篤」と書くそうです。

 湾外に向かって突き出ている細長いのは、工場で製造されたセメントを沖で停泊している船舶に積み込む為に昭和45年(1970年)に建造された桟橋で、その長さは2kmもあるそうです。

 国道228号線を函館から松前方面に向かって走ると見えて来ます。そのまま進むと桟橋の下を通る事が出来まして、右手側にセメント工場が見えます。

 北斗市の農業についての展示でした。
 文献には元禄5年(1692年)に上磯町文月地区で稲作を試みるも失敗に終わったそうで、しかしそこから改良を重ねて現在では「ふっくりんこ」の生産が行われているそうです。
 元々、北海道での農業研究は開拓使が立ち上げた官園や現在の北海道大学が行っていたそうで、官園が廃止されてからは新たに設置された北海道庁の元で農事試験場(現在の農業試験場)が管理・運営され、明治42年(1909年)に大野町で北海道庁立渡島農事試験場が設置されたとの事です。官園については本施設から車で20分程度に位置する七飯町歴史館で詳しく展示されていますので、是非どうぞ。
 農事試験場は現在では運営母体が変更になったのに合わせて「地方独立行政法人北海道立総合研究機構農業研究本部道南農業試験場」となったそうです。ちょっと長過ぎやしませんかね。

 因みに、公式に「北海道水田発祥の地」として認められているそうです。

 漁業のコーナーでは、先にも書いた通り「ほっき突き漁」について詳しく展示されていました。尚、ホッキ貝の他にもイワシ、サケ、カレイ、ヒラメ、コンブ、ワカメが獲れるそうです。これは知らなかったんですけどカキの養殖もされているんですって。

 全国でも北斗市だけで行われている伝統的漁法である「ほっき突き漁」とは、6~8m程度の棒の先端に4本のヤスが付いている伝説の武器みたいな道具を使い、ヤスでホッキ貝を挟み込んで1つずつ捕獲するんですって。
 見えない海底を突いてホッキ貝らしきものを手の感覚だけで探し出して捕獲するので、練度によって漁獲量に個人差が出るそうです。又、大量には獲れないので自ずと乱獲には繋がらない為、資源保護になっているそうです。

 ずーしーほっきーにこの道具を持たせた方が説得力も上がるのではないかと思うのですが、ずーしーほっきーの焦点が合っていない目に加えて見た目が武器っぽいので、武器を持った気持ち良くなる薬をキメているヤバい奴だと思われるから却下されたんですかね。

北斗市の文化財

 北斗市には国指定、道指定、市指定、国登録の文化財が全部で22あるそうです。
 手前の額は文政6年(1823年)に書かれた、当時の松前藩藩主直筆の文月稲荷神社の社号額です。鳥居とかに掲げられているアレです。神様の表札です。

 これは道指定の文化財で、明治8年(1875年)に開拓使が測量を行う為の基点を設定する為の櫓を再現した模型です。解り難いですけど基点が文化財であって櫓は文化財ではありません。

 櫓の中心には、こんな感じで下げ振り錘がぶら下がっていました。

 こちらは国登録の文化財で、江戸時代末期に建てられた「熊谷家住宅主屋(しゅおく)」と呼ばれる当時の店舗兼住宅です。雪国だから維持管理が大変ですよね。

北斗市ゆかりの人物

 北斗市に縁のある代表的な15名の方々が紹介されていました。それぞれを書くと長くなるので詳しくは書きませんが、皆さんは産業や文化に貢献された方々です。

 まぁまぁ気になる展示がある中で、本場ドイツの製法で今も作られている函館カール・レイモン(https://www.raymon.co.jp/)の当時のソーセージの缶詰の隣にある、山田喜平(やまだ・きへい)氏の書いた「めん羊とその飼い方」でしょうか。
 元々日本では羊は生息しておらず江戸時代に入ってから輸入されたそうで、意外と羊の歴史は浅いみたいです。その後、明治時代に入ってから政府が奨励する事によって徐々に普及したそうで、この本では飼育方法の他に「成吉思汗(ジンギスカン)料理」についても紹介されているそうです。
 ジンギスカンについては諸説あるそうですが、岩見沢市北村郷土資料コーナー「北村の記憶」の展示によると大正13年(1924年)に北村めん羊畜産組合が発行した「羊肉料理法」に、殆ど似た調理法を紹介しているそうです。
 まぁ、美味しければ何でも良いんですけど。お腹空いた。

 上磯町出身のミッチー(三橋美智也氏)です。北海道でミッチーと言えば演歌歌手の三橋美智也氏です。

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