【奈井江町】郷土館(No.063)

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 色々と更新のペースが遅くなっている為、施設の情報とか施設の概要のみご案内している場合があります。詳しくはお知らせをご覧下さい。

 博物館とか資料館とか記念館とか巡りが大好きな中の人がお送りする、地元北海道内の博物館とか行ったメモ。
 第六十三回目は「奈井江(ないえ)町郷土館」です。

 本施設は「社会教育センター」内にありまして、公民館、図書館、郷土館が入っている複合施設です。

施設情報

施設名:奈井江町郷土館
場所:〒079-0300 北海道空知郡奈井江町奈井江152
URL:http://www.town.naie.hokkaido.jp/bunka/bunka/shakyo/kyodo/
休館日:月曜日
開館時間:9:00~17:00
料金:無料
必要見学時間:40分

施設概略

 受付がありますので、職員さんに声を掛けてから階段を登り2Fへ。
  • 1フロアーに奈井江町の旧石器時代から現代までが展示されています。
  • エントランスを含めて大きく4つのコーナーに分けられています。

 館内はちょっと変わった形状になっており、ジグザグに歩いて見学します。まっすぐの方が見易いと思うんですけど、これ意味あるのかな。

エントランスホール

 エントランスには奈井江町の略歴が説明されていました。後で説明されていましたが、安政4年(1857)に松浦武四郎氏が調査に訪れているそうです。

テーマ展

 入ってすぐに「本のできるまで」と言うテーマ展がありました。題材は奈井江町郷土研究会が編集した「ないえの民具」と言う書籍で、当会の創立20周年企画との事でした。
 本の構想、資料の収集、原稿、試し刷り、完成までと、普通は目にしない細かい工程を経て本になる様子が解ります。

展示室2(ナイエ原野)

ナイエの昔

 奈井江では旧石器時代の頃から人々が生活していたそうで、奈井江町内では幾つか遺跡が発見されているとの事です。ただ、詳しい調査が行われておらず正確な事は判っていないそうです。予算の関係なのか人員不足なのか優先度が低いのか・・・。今後に期待ですね。
 それと壁に「ナイ原野」と書かれており「ナイエ原野」の誤植かと思ったんですけど、昔はナイ(又はナヱ)とも呼ばれていたそうなので、恐らくそっちの方なのでしょうね。ないアルよ。

 中央の土器は町内にある茶志内(ちゃしない)沼の遺跡から出土された擦文時代の土器との事です。でも詳しく調査されていないのでしょうね・・・(´·ω·`)

新天地を求めて

 安政4年(1857)に松浦武四郎氏が調査に訪れて以降、これと言って暫くは何も無かったそうで、明治3年(1870年)に伊達藩の分家に当たる岩出山(いわでやま)伊達家の当主であった伊達邦直(だて・くになお)氏が奈井江周辺を調査したそうです。結果、当時は交通の便が悪かったので当別(とうべつ)の方を開拓されたそうです。
 ところで北海道には伊達家に縁のある施設がありまして、伊達市だて歴史文化ミュージアムとか当別町伊達記念館とか、もっと言えば伊達市もあります。

 明治7年(1874年)に地質学者のベンジャミン・スミス・ライマン氏の調査によって、夕張(ゆうばり)から続く石炭層が発見されたそうです(ライマン氏は三笠市三笠鉄道記念館の3ページ目にも登場しますので、やる事が無くてどうしても50分は時間を潰さないとならない方はご覧下さい)。
 その後、囚人によって国道12号線の工事が行われ、明治27年(1894年)に屯田兵が入植し開墾が更に進められたそうです。

 屯田兵です。

 屯田兵です。
 こんな顔していますが実際には開墾しつつ軍事訓練しつつだったそうなので、かなり大変だったと思います。

 こっちは民間で移住された方の開拓風景でした。
 屯田兵の入植よりやや遡った明治24年(1891年)頃から徐々に入植者の方々が増えたそうです。

 本施設では解り易いイラストがありまして、これもその内の1つです。入植、開墾、小屋造り、その後の生活までが描かれています。
 特に埼玉県や広島県からの入植者が多かったそうで、北海道に渡る際の汽車・汽船賃を割り引く「北海道移住民汽車賃汽船賃割引券」と言うお得な割引券も発行されたそうです。北海道の開拓は国策だったので、こうやって移住される方々に便宜を図ったのでしょうかね。まぁ、そうでもしないと人が集まらなかったのでしょう。

展示室3(産業の誕生)

奈井江の炭鉱

 左側に写っているのはワッフルコーンアイスではなく、先にも書きましたが地質学者のベンジャミン・スミス・ライマン氏です。
 ライマン氏の調査によって奈井江に石炭層が豊富にある事が発見され、明治28年(1895年)から奈井江での炭鉱の操業が開始されたそうです。因みに、石炭層が見付かったのはここ奈井江だけではなく、夕張(ゆうばり)・岩見沢(いわみざわ)・三笠(みかさ)・美唄(びばい)・奈井江・砂川(すながわ)・赤平(あかびら)・芦別(あしべつ)までの各地域で炭鉱が採掘されていました。

 位置としてはこんな感じです。それぞれの地域に炭鉱に関する資料館とか博物館とかたくさんありますよ。

 採掘中を再現した展示です。

 あれ、以前に何処かでお会いしませんでしたか?

 奈井江付近だけでこんなに炭鉱が存在していたんですね。因みに、昭和41年(1966年)頃から徐々に閉山されて昭和47年(1972年)に石狩炭鉱で爆発事故が発生し、これを機に最後に残った炭鉱が閉山されて奈井江での採掘が終わりを告げたそうです。

 こちらはライマン氏の調査結果に基いて作成された復刻版の地質図との事でした。すげー細かく調査されているのが解ります。正しくは「日本蝦夷地質要略之図」と呼ぶそうで、日本地質学会の地質フォト>日本蝦夷地質要略之図(http://www.geosociety.jp/faq/content0086.html)で詳しい解説がされています。もっと大きい地図が見たい方は北海道大学北方資料データベース(https://www2.lib.hokudai.ac.jp/hoppodb/)にて「日本蝦夷地質要略之図」で検索するとたくさん表示されます。
 因みに黄色い場所が石炭層のある場所で、確かにここら辺は炭鉱があります。釧路市側の炭鉱については釧路市旧太平洋炭礦炭鉱展示館とか白糠町白糠炭田石炭資料室とか釧路市阿寒町炭鉱と鉄道館「雄鶴」とかがありますので、そちらにお立ち寄りの際には是非どうぞ。

商工業

 先にも触れましたが、国道12号線は囚人によって明治19年(1886年)に工事が始まり、明治23年(1890年)に距離にして約100kmの旭川⇔岩見沢までを開通したそうです(岩見沢から札幌までは囚人による工事ではないそうです)。4年でねぇ・・・ほぼ人力だった当時を考えると地獄ですよね。
 囚人とは言え犠牲になった方々のお陰で、12号線沿いの地域が活性化して後の町造りに繋がったのでしょう。因みに、囚人の中には明治新政府に対する思想犯も多く含まれていたそうで、全員が全員共に凶悪犯では無かったそうです。
 この12号線の他にも囚人によって作られた道路がありまして、北見市の方の道路とかも過酷な環境で作られたそうです。慰霊碑とかも建立されておりますので、通る際には心の中で手を合わせてもバチは当たらないと思います。

 尚、国道12号線の美唄市と滝川市の区間が日本一長い直線道路(29.2km)になっており、それぞれに「直線道路日本一標識」が設置されています。又、奈井江町には「直線道路日本一標識・中間点」と言う標識もあります。

 ここが中間点の標識となり、奈井江町の道の駅である「ハウスヤルビ奈井江」に隣接されていますので休憩がてらご確認下さい。余談ながら「ハウスヤルビ」とはフィンランドの姉妹都市であるハウスヤルビ町です。

 昭和19年(1944年)に、砂川町(現・砂川市)の一部であった奈井江地区を奈井江村に分村し、現在の奈井江町に至るそうです。
 一升瓶は北海道の金滴酒造と言う、奈井江よりも北に位置する新十津川(しんとつかわ)町にある酒造会社のお酒です(新十津川町開拓記念館では金滴酒造の展示がありました)。金的ではありません。

 石炭産業の下火に伴い人口も減り続け、昭和35年(1960年)頃をピークとして現在は1/3まで減ってしまったそうです。
 とは言え、奈井江には大きい工業団地があり、運転を休止してしまいましたが昭和43年に運転が開始された北海道電力の中でも最古の火力発電所もあります。大規模災害に備えて発電所の施設を当面は現状維持されるそうですが、必要にならない事を望みます。

農業・酪農

 奈井江には一級河川である石狩川が流れており、その豊富な水を利用した農業が盛んです。特に稲作とメロンが有名でしょうか。
 ただ、過去には雪解け水等の影響でオリンピック並みの間隔で洪水が発生したり、記録に残る様な大洪水も起こって何かと大変だったそうです。現在は工事によってそうした被害が出難い様に改善されたそうなので、安心して美味しいメロンを頂けます。
  • 明治31年 ・・・ 大雨で洪水
  • 明治34年 ・・・ 大雨で洪水
  • 明治37年 ・・・ 大雨で洪水
  • 大正8年 ・・・ 大雨で洪水
  • 大正9年 ・・・ 大雨で洪水
  • 大正11年 ・・・ 台風で洪水
  • 昭和7年 ・・・ 大雨で洪水
  • 昭和18年 ・・・ 大雨で洪水
  • 昭和36年 ・・・ 大雨で洪水
  • 昭和37年 ・・・ 大雨で洪水

 展示されていた主な農業災害の一覧から、洪水に関する記録を抜粋しました。他の災害も含めると、ほぼ2年置きに冷害やら台風やら何かしらの農業災害が発生していました。こんなの心が折れますよ。

 そりゃ瞳孔も開くよね。

 当時の農作業道具が展示されていました。

 使い方はこの通り。通常、農機具と用途だけが展示されており、本施設の様に人がどの様に使用するのかまでは説明されていない方が多いので、そう考えるとこのイラストは親切・丁寧です。

 馬具を中心にした酪農関係の展示でした。因みに、現在は乳牛を中心とした酪農が盛んだそうです。

展示室4(恵まれた自然の中で)

交通・通信・消防・教育

 道路が開通する前は石狩川を船で移動するのが主だったそうで、炭鉱が相次いで開山されると鉄道が発達したそうです。昭和3年(1928年)には乗り合いバスの運行が始まり、更に利便性が増したとの事でした。
 明治32年(1899年)に郵便局が置かれ、大正10年(1921年)に同郵便局で電話の業務が開始されたそうです。

 奈井江は春頃になると乾燥気味になる事が多いらしく、明治32年(1899年)の春に市街地で火災が発生し全滅に近い状況になったそうです。それを受けて明治36年(1903年)に私設の消防組が誕生し、火事や前述の石狩川の氾濫等々の災害対応に当たったとの事でした。

 開拓時代は両親も児童も働かねばならず勉強をする暇や教える人も居なかったそうで、それを危惧した香川県から入植された折目初次郎氏が、明治25年(1892年)に自宅を開放して近隣の児童を集めて読み書き算盤を教え始めたそうで、これが現在の奈井江小学校に繋がるとの事でした。きちんとした教育は必要ですよね。教育を受けてもまともに育つかどうかは判りかねますが。

生活と文化

 特に時期についての説明はありませんでしたが、板間なのと生活用具が多いので恐らく開拓期を過ぎた頃で大正時代に入る前の家屋だと思います。

 昭和15年(1941年)頃との事ですので、太平洋戦争が始まる前年の頃の町並みの写真です。兵士として出征された方々はいらっしゃった様ですが、空襲等の直接の戦争被害は無かったみたいです。

 慰問袋は戦地の兵士に品物を送る為の袋で、奉公袋は兵士が軍隊手帳とか記章とかを収める袋です。

マルチスクリーン・地形模型

 残念ながら故障中でして動きませんでしたが、恐らく薄っすらと見える写真からは奈井江の町並みやそこで暮らす方々が表示されるのだと思います。

 こちらは奈井江町のジオラマです。工業団地や住宅区域、商業地域等々が色分けされており、奈井江の土地がどの様に利用されているのかが解る様になっていました。

「奈井江町・郷土館」のまとめ

  • 1つ1つの展示が丁寧に制作されており、地味にボリュームがある。
  • 人形が怖い。

【奈井江町】郷土館(No.063)へのコメント

  1. 昔よく行ってますた っても中学生時代だから云10年前ですが^p^
    当たり前かもですが昔の印象のまま、云10年変わってませんねー
    土器は現地である茶志内沼の北端の方に発掘地の看板はありますが、
    私有地だからか保存もしてなく追加調査も多分にしてないでしょうね

    郷土館も又入りたいですが、当時ならともかく云10歳になったメタボ親父が入るのは気が引けてしまって^p^

    1. こんばんは。
      定期的なリニューアルは人員や予算の関係で何処の博物館とか資料館も難しい様ですね。特に公立ですと観覧料が無料が多いので尚の事でしょうね・・・。

      あと、本施設に限らず意外と人が少なく貸し切りに近い状態の方が多いので、人目を気にせずハッスル出来ます。

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